弱者犠牲で成り立つ人間社会(1)

現在の大きな社会問題として、弱者犠牲の上に成り立っている社会のあり方が問われているという。なぜ今、それが?といえば、民主主義が大衆に浸透してきた結果なのだと。

 この発言のポイントはどこにあるかといえば、
 「今の社会は弱者犠牲の上に成り立っている」という部分だね。
 付加的な問題として、民主主義の本質論が基底にある。

 今、それが大きく露出しているものとして、
 (1) 沖縄の米軍基地移設問題、
 (2) 東日本大震災のガレキ処理問題、

 ...があげられている。

 この二つは、民主主義というものの二つの対照的な性格を露出しているだろう。

 (1) の問題は、政治的に弱者であった沖縄が、中央政府による基地受難押しつけに対して、
   堪忍袋の緒が切れた住民の怒りが看過できないものとなった、ということだ。

 自由平等という民主主義社会の原則からして、沖縄にばかり過度な負担を強いるのは平等ではないと、(弱者である)沖縄の住人たちが基地の県外移転を中央政府に求めている。

 実際、日本にある米軍基地134箇所(うち、米軍専用は90箇所、後は自衛隊との共用)の、
 約75%は沖縄に集中している。不平等極まりないことは確かだ。

 以前、仕事の関係で神奈川県大和市に住んでいたことがあるけど、厚木基地から飛び立つジェット機の轟音はものすごかった。
 滑走路から飛び立ってすぐの(といっても6km離れた中央林間だけど)ジェット機は、何の前触れもなくいきなりゴーと頭上を通過する。
 毎度のことながら、肝を冷やすのだ。その後に雷よりもすごい轟音がしばらく鳴り止まない。その間、電話などまったく聴こえないので、しばらくは待たねばならない。

 これが、空母を使ったタッチアンドゴー訓練ともなると、連続的な離発着が数時間も続いたりする。その間、地元の住人はまったく落ち着いた生活などできないことになる。

 この実態を知ってしまうと、米軍基地いらっしゃい!などという自治体住民は、日本全国どこにもいないだろうことは容易に理解される。それでは日米安保条約などは砂上の楼閣になってしまうから、共産主義国を仮想敵国として醸成される危機感を盾として、基地容認に大義を与える政治決断がなされてきた経緯がある。
 

 (2) の問題は、自由と平等と、二つの問題がからんでくるだろう。
    被災地の人たちは災害の被害者であり、社会的に弱者の位置に追い込まれているが、
    この問題の直接的な当事者ではない。
    問題となっているのは、そのガレキの広域分散処理の部分だ。

 被災地復興のためには、震災被害を受けなかった他県のゴミ処理施設で分散負担をしましょう
 ...という政府の国政レベルの方針に対して、
 放射能汚染の拡散に繋がるとして、うけ入れ表明自治体の住民がうけ入れ反対運動を起こし、
 ガレキの処理は遅々として進まず、被災地住民に犠牲を強いる結果となっている、と。

 横須賀の場合は米軍基地の受難者であると同時に、放射能ゴミ処理受け入れ反対もしている。
 こういう「住民の反対運動」というのは、無原則で恣意的であり、身勝手なエゴイズムだと、
 一部では非難の声もきかれる。

 ところが、その後の放射能ゴミ処理受け入れ反対論は、子を持つ母親が中心となって、
「子供の将来が心配だから、受け入れられない」という、仮定的弱者論を前面に押し出してきた。
 
 そこまで言ってしまえば、そしてそれを正当なものだと認めれば、
 日本全国どこの市町村住民でも、放射能ゴミ処理受け入れ反対の論拠を得ることになる。

 ...アフガンや中近東のゲリラたちが人間の盾戦術をとって、大国軍隊と戦っているのと同じ、
 「ヒューマニズムに訴える大義という(人間の)盾を見いだしたわけだね。

 義理と人情を秤にかけりゃ、義理が重たい 男の世界

 自由と平等を秤にかけりゃ、自由が重たい自由主義国
                   平等が重たい社会主義国

 チェルノヴィリ原発事故では、住民を強制移住させることでソ連政府は決着をつけたけど、
 アメリカもビキニ環礁の水爆実験で、島の住民をマーシャル諸島の他の島へ移住させた。

 そのアメリカでは、一握りの富裕層とその他の経済的弱者との反格差デモが頻発している。
 ロシアではプーチン政権下で急増した大富裕層が、プーチンの再登場を阻止しようとしている。

 いざとなれば、住民の自由な意見や希望は制限されたり抹消される。
 国民の不平等はより上位の国家的理由により強制される。

 エコロジー的な問題というのは、社会体制にかかわらず、人類の問題として考えねばならない。
 自然科学的な見地から、最善の方法を見いだすことが第一義的なことになるのだと思う。

 米軍基地の問題は、以前に書いたように日米安全保障条約と日米同盟という国際的な枠組みの問題を再検討しなければならないだろう。
 それらを既定の事実として、政治的な解決を図ろうと推し進める事は、国家の犯罪といってよい。

 けれども、それこそが、国家というものの本質であり、民主主義というものの現実だと、
 冷徹に見据えなければいけないはずだ。

 
 こういう問題については、社会体制や政治形態ではどうにもならない「人間の本質的な問題」
 が問われてくることになるのだと思う。

 それで、この問題に限定して人間とはなにか、と考えるなら、
 「人間とは、動物の中で唯一、小利口な類的存在である」とでも、形容するしかないだろうサ。

 世の中には、ありとあらゆる弱者犠牲が見え隠れしているけれども、
 これは原始社会が国家的な形態を成しはじめた時から、存在しているものだろう。

 共同規範とは平等意識の母胎であり、
 共同規範の世界=社会が成立すると同時に、
 平等でない社会的弱者という概念も成立するのだ。
 
 大多数の民衆はこういうものを見て見ぬふりをしてきた、というのが人類の歴史の影の部分だ。
 ガンジーやマザーテレサのような自らすすんで犠牲を引き受けたひとが聖人と呼ばれる。
 古くは、仏陀であり、キリストであり、その他宗教的な開祖のひとたちは聖人とよばれる。
 
 マルクスだって、宗教的にではなく社会システム的に、弱者犠牲を生み出さない道を模索した。
 個人的な自己犠牲による救済や、宗教という観念の世界の救済では救いきれないものを見据えていたからだね。
 
 考えねばならないことばかりだ。

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このページは、小林由典が2012年2月28日 21:42に書いた記事です。

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