戦後詩から、その意味(6) 列島、第三期の詩人

戦後詩を「荒地」派だけ取り上げて終わるのは不親切かなと思う。やはり土俵は三役そろい踏みでないとバランスがとれない...。ということで、「抒情の論理」から他のグループも紹介しておきたい。

列島」グループは、関根弘、長谷川龍生、瀬木慎一、木島始、井出則雄などによって推進されたが、
 1954年(昭和29)3月、関根弘が「狼が来た」を発表して、
 ・プロレタリア詩の「主題の積極性」理論、
 ・政治の優位性理論、
 ...という誤謬を戦後に引きずってきた野間宏、岡本潤、大島博光、赤木健介らを徹底的に批判して、
 アヴァンガルドとレアリズムの綜合を説いたとき、ほぼ、方法的な自覚にたっしている。

 わたしなりにその主張を要約すれば、
 プロレタリア詩が、下層庶民の生活意識と情緒のままに、あいまいに残しておいた...

 ・内部世界を意識化し、論理化することと、
 ・外部の現実世界を意識的に再構成すること、 
 ...が同義でなければならないとして、その対応性をつきつめている、ようにおもわれる。

 そして、プロレタリア・レアリズム運動から、特にダダイズムの影響下にあった「赤と黒」の運動を再評価している。この派の詩人たちは、方法としてのシュルレアリスムを、内部の意識によって確かめることで、日本のモダニズム詩の「コトバの芸術性」とプロレタリア詩の「意味の文学性」とを綜合できると考えていた。」

 詩詩『赤と黒』は、萩原恭次郎、壺井繁治、岡本潤らによって創刊されたが、わずか一年半で終巻をむかえた。
 けれども、この詩誌の影響下に小野十三郎や秋山清らのアナーキズム詩人が詩的出発を果たしている。
 1948年(昭和23)、小野は『奴隷の韻律』を発表し、短歌および俳句の伝統的抒情を徹底的に批判している。

 
 さて、「列島」グループは、「サークル詩」を基盤にして、「サークル詩」を現代詩として位置づけるという運動を主導していった。
 これは、コミンテルンの人民戦線構想の焼き直しだといってよいだろう。
 いわば、大衆に対するオルグ活動の一環である、と。

 前に述べているが、ソ連・コミンテルンは第七回世界大会(1935年7月)において、
 「理想論的な統一戦線を現実路線に改め、
 反ファッシズムおよび反戦思想をもつ大衆を
 それ(オルグ工作)と気づかれないように傘下に取り込み、
 広範で多層的な戦線形成をはかる戦術」に改めた。


 「列島」グループの主張は、いうまでもなく、詩の政治的な意味を、文学の大衆運動のなかにもとめ、
 大衆運動を意識化することによって、芸術的な意味をもたせることができる......、というところに、
 政治的意味と芸術的意味との混乱、分裂の問題を解決しようとしていることに外ならない。

 しかし、この観点をつきすすめていけば、依然として、詩の政治的な意味と芸術的意味とを分離する
 かつての中野重治の文学観に行きつかざるを得ない。
 その結果は、かならずあいまいに芸術的意味と政治的意味とが混合されて提出されるか、
 現実的な問題を含まないモダニズム詩の再版に陥らざるを得ないといえる。

 「第三期の詩人群」を、四季派の末裔だと、単純には見なしえないと、吉本隆明は前置きをして、

 ・谷川雁、茨木のり子などのように意欲的な現実批判を持っている詩人と、
 ・中村稔、谷川俊太郎、山本太郎、高野喜久雄、牟礼慶子、中江俊夫など、
  内部世界の問題を内閉的に表現している詩人と、
 ・飯島耕一、大岡信、清岡卓行など、シュルレアリスムの手法的な影響下にある詩人たちと、
 ...同列に一括することは不可能に近いかもしれないが、と述べている。

 (初稿発表が1956年(昭和31)「文学」ということで、当時の状況認識であることに留意のこと。
  堀川正美もこのグループに属する。
 
 
 総体的に見れば、
 内部世界と外部の社会的現実とのかかわりあいが、
 内的な格闘や葛藤として詩に表現されないという点に、
 彼らの特質を見ても大過あるまい。

 けれども、
 「四季」派にあっては、
 コトバの芸術性と意味の文学性とが、
 自然主義的な情緒によって包装されていたにすぎなかった。

 「第三期」の詩人たちは、
 すくなくとも内部世界を主体的に論理化することと、
 コトバを論理的、一義的に使用することとが、
 内部で明晰に対応され、関係づけられている。

 その詩は、
 「四季」派のあいまいな気分的な抒情とちがって、強固な構造を確立している。
 そのことによって、
 モダニズム詩とプロレタリア詩が陥った詩の主体的な空白は、克服されているといえよう。

 しかし、「第三期」の詩人たちは、いくらか例外を設けなければならないとしても、
 プロレタリア詩運動が、革命運動と結ぶことによって提起した
 詩の政治的意味と芸術的意味との二元性の課題を、完全に切り捨てている。

 これは内部世界が外部の現実世界と相渉る過程を、
 詩の表現として考えなかったこの傾向の詩人たちの態度から、必然的に導かれたもので、
 ここに「第三期の詩人群」を、「日本の戦後資本主義の総体的安定期に消極的に対応するもの」
 ...として、位置づけざるをえない根拠がある。

 これくらいにしておこう。
 吉本隆明は詩人である以上に思想家であり、遅れてきた「荒地」派の一人ですから、思想的な意味性と表現者としての過剰な倫理意識を重視する立場だ、ということを考慮する必要はあろう。
 けれども、たいへんオーソドックスな理解の仕方であり、その原理的な部分はたいへん参考になる。

 40年も昔に通過し、古本屋に売り払ってしまった本ばかりだけれど、この項を書くために再度購入し、読んでみたところだいぶ忘れていることもたくさんあった。

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このページは、小林由典が2012年1月 5日 16:22に書いた記事です。

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