社会的無関心&内向きな詩群(2)

社会的無関心あるいは問題意識の希薄さの構造を考えてみたい。 これは、ただ単に勉強不足だとか知性の問題だとかたづけられない、我が国のシステムに根ざしている深いものがあるようだ。

 沖縄の米軍基地の問題は、ひとえに日米軍事同盟(安保)の問題であると、記した。
 安保問題は対岸の火事のごとく傍観している内地の人たちも、軍基地を沖縄以外の場所に移転するという話になると、大反対を唱える、と。

 そもそも政治というものは、個人レベルの理想や思いを実現するものとはならない。
 むしろ、そういうものを抑圧するように作用する共同規範の世界こそ政治の世界なのだ。

 たとえば、戦争をしたいと願う庶民はだれ一人いない、といってもよいだろう。
 一部のへそ曲がりか、アイロニー好きのへ理屈論者以外には、ね。

 けれども、政治権力は、原始共産制的な昔から今日まで、
 ありとあらゆる名目を設けて戦争を遂行してきたのだ。

 日本国民のだれもが米軍基地を歓迎しない。けれども、そういうものを踏みにじって、日米安全保障条約が締結され、更新されて60年安保闘争、70年安保闘争が起こった。

 議会制民主主義というのは大衆の不満をガス抜きするための、擬制的な装置にすぎない、
 としか私には思えないわけだね。

 選挙権というものをお上から拝受して、それは国民の権利だからというお題目に目くらまされて、選挙に出かける。
 けれども、選んだ政党は選挙民の思いを汲むどころか、国家の論理に則って国民を抑圧することを巧妙に遂行する。如何に巧妙にやるか、が政治の技術なのだといってよいほどだ。

 我が国には、昔から「民は、依らしむべからず、知らしむべからず」というお上の思想がある。
 そして、民には「見ざる、聞かざる、言わざる」という、庶民的な処世訓が根強く存在している。
 両者は表裏一体のものであり、伝統的な社会習慣あるいは制度的伝統として培われてきたものだ。

 これは日本だけのことなのではなく、中国でもインドでも、ロシアでも大同小異なのだね。
 封建制度的な遺制を保持している国では、大なり小なり「知らしむべからず」という制度的なものが脈々と息づいているのだろう。アジア的な後進性といってもよい。

 次の詩稿は書きかけのまま、放置してあったものです。部分の集積中だともいえる。
 詩の作品として推敲しようという意志もなく、メモのように書いたままなのは、
 この「インド的視線」の意味がよく分からなかったからだ。

 「眼差し 」 ...2010/07

 北インドのベナレス(バラナシ)、ガンジス川西岸にある有名なダサスワメート・ガート(沐浴場)近くに長期滞在していた私は、ある時いつもとは違うレストランに入ってみた。

 店内は満席で、一人客の私はインド人が座っている席に相席となった。
 真向かいの先客はベンガル人のような厳つい容貌で、肌の色もひときわ黒い。
 外人の私には、どのようなカーストの人間なのかは分からなかった。それは相手も同じことだろう。
 ひとつ言えることは、相対的にみて相手の方が、外国人である私よりも低いだろうな、と。

 男は、まっすぐ前を向いて座っており、その真向かいに座ることにいささか気が引ける思いがしたが、仕方がない。
 とりあえずボーイが来るのを待ち、注文を済ませて、改めて挨拶のひとつもしようと、相方の方を見る。
 ところが、男はニコリともせず、硬い表情のまま、私の方を見続けているのだけれど...
 なぜか、直立不動的な緊張感を漂わせているように感じる。

 そして、何とも不思議なのだけれど、彼の視線は私の目まで届いてきていないのだねェ。
 日本人には絶対にあり得ないほど徹底した無視(見ていないフリ)の仕方、中空を見ているのだ。

 でも、今になってはっきり分かった。
 たとえば、挨拶...
 ナマステ!と言うべきか、サラーム!というべきか?
 相手もまた、カーストの印も、宗教の印も身に帯びていない外人に、どう応えればよいのか...と。
 
 インド人はヒンズー教徒なら、どの派に属しているかを額の印などで表示しているし、カーストを示すひもを身につけているらしい。シーク教徒なら、頭に独特のターバンを巻いている...。
 ヒンズー教徒にサラームと、イスラム式の挨拶をすれば、それがきっかけとなって、口喧嘩から周囲を巻き込んだ暴動に発展しかねない。多民族沸騰国家では、あり得ない話ではない。

 そういう中では実に庶民的な処世術として、「何も視ない」というまなざしの有り様を、だれもが身につけているわけだ。
 これは社会的な共同規範に存在するタブーを犯さない、敬して遠ざけるという心性の現れのひとつなのだと考えられる。

 たしかに、「知らしむべからず」という封建制度の大衆抑制策は、
 庶民レベルでみると、「お上がなんかやってるけれど、そんなこと自分には関係ない」という社会的無関心として現れる、ということになるのだろう。

 下世話なことには、女性週刊誌的好奇心と、余計なお節介が氾濫する一方で、
 安保だとか、グローバリズムによる社会・経済の大転換だとか、検索エンジンの神格化だとか、
 ...そんなものは、どこか遠い世界の話にしか聞こえないし、気にしてもしょうがない、と。

 まさにこれが、庶民レベルの処世術であり、
 社会的な抑圧構造を、そのまま受け入れ馴化してゆく自然的感性の行き着く果ての姿なのだ。
 分かってはいたけれど、「そうなんだ」と再認識するものがある。

 このような社会状況は、当然のことながらディスクール(言説)にも現れてくる。

 社会的な無関心、あるいは社会的視点の曖昧な詩を書いている人というのは、
 「大衆意識の内側で、詩を書いている」...ということが挙げられるだろう。

 『詩的世界定位』の最初の方で、歌謡曲と現代詩との違いはどこにあるのかを書いている。
 歌謡曲は大衆意識の内側で書かれており、
 現代詩は大衆意識の外側で書いているのだ、と。

 このように、ひとこと言えばすむことだと考えていたのだけれど、
 地方文化詩と皮肉った詩のほとんどは、
 社会的視点の曖昧さ、あるいは思想性の希薄さ、あるいは内面的世界の薄弱さ、
 ...という理由によって、大衆意識の内側で書かれたものだといわざるを得ない。
 過去の現代詩あるいは昭和初期の現代詩の水準にある、と。

 この頃では、歌謡曲の作詞者が詩人を標榜し、
 「現代の詩は歌謡曲が担っている」と揚言するのも無理からぬと感ずる、お寒い状況だね。

 古い現代詩なんぞよりは、歌謡曲の方がはるかに現代的な感性を獲得しているし、
 レトリック的にも面白いものがあるし、
 コトバの芸術としての音韻的な冒険もしているし...。

 そのような庶民レベルの詩とはまた違って、
 意図的に言葉の意味性を否定して、言葉が自然の事物であるかのごとく扱って詩を書く、現在の 現代詩のことについても言及しておかねば片手落ちかと思うので、いずれ取り上げてみたい

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このページは、小林由典が2012年1月11日 23:48に書いた記事です。

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