日本語エクソダス(2)日本語の多様な可能性

エクソダスとは日本語から脱出することではなく、既知の日本語が自分を通過すると未知の言語に変わる、という言語表現を追求することだと。デノテーション以外で用いるとは...。

 野村喜和夫はバイリンガルや数カ国語をしゃべる外国人との交流から、
 日本語を唯一絶対のものとしている自分の立場はかえって特殊である、と感じたようだ。
 けれども、曖昧語だとか何とか言われる日本語だけれども、
 母語を脱出することなんてできないのは、前回述べたとおり。

 かつて、森有礼(もりありのり)は英語を日本の国語と定めることを主張し、その孫の森有正はフランスに住み、フランス語で読み書きを行っていたね。
 西脇順三郎は最初、英語の詩を書いていたけど、私も同じことを考えたりしたことがある。

 ご存じのように、韓国(朝鮮)語や中国語、英語を母語にしている人で、日本語の詩や小説を書いている詩人もいる。

 このような言語的越境は日本語では特に顕著な、また大昔からあったことなのだね。
 そういった諸々のことを視野に入れて、詩を書いていこうというわけなのだ。

 たとえば、漢字の使い方、
 たとえば、音数律に乗るか乗らないか、
 たとえば、音数律以外の詩的リズムを追求するとか、
 たとえば、外国語の使い方、
 たとえば、方言の使い方、
 たとえば、古語の生かし方、

 ...色々考えられる。もっと様々なことを試みている人もいる。

 そういうことも、ある程度意識的に使えるようにならないと、
 表現を豊かにすることはできないだろうし、現代の現代詩を鑑賞することもままならない。

 重要なことは、意識的に扱うことであり、
 自分の嗜好で無意識に扱って、過去(の歴史的経緯)に埋没・吸収されないことだね。

 自分の好みでやるのはかまわないのだけれど、
 その嗜好が持つ意味、reason why ...が必要なのだ。

 
 たとえば私はある詩の中で、「定義しよう 分かるは 判るでもなく、解るでもない」...と書いた。
 解るね?こんなのは序の口だから、説明はしない。

 見るという言葉も、視るとか、観る、診る、看るとかあるだろう。
 基本的な言葉ほど、多様な意味性を持つので、漢字を適正に当てはめたいという気持ちになる。

 そういうこだわりは、それなりの理由があるから、読み手にも伝わるはずだけれど、
 なんでこういう辞書を引かないと読めもしないような非・常用漢字を使うのだろう、というのは
 その意図があればこそ、だけれど。
 理由もなく無意識に嗜好が出てしまった場合は、衒学趣味と言われてもしょうがないだろう。

 また、日本語の音数律だけれど、こちらはもっと深く日本人の感性にしみ込んでいるので、
 ついつい口調を良くする意識が働いて、3、4、5音の組み合わせ、
 いわゆる広い意味での七五調にしてしまうことがある。無意識のうちに。
 よくある落とし穴だけれども、
 言葉に鋭敏であるべき詩人としてどうかな?

 そのような音数律に乗ると、ことばをいい加減に使っても、曖昧に使っても
 なんとなく分かったような気分に読者を錯覚させるだろう。
 言葉の向こうで、作者自身がことばを曖昧なまま使っているからなのではないだろうか?

 これだけは分かってもらいたい、という部分は、むしろ晦渋な調子にして、
 読者をつまずかせ、あるいは立ち止まらせ、注意を喚起したいと私は考えるけどね。

 シニフィアンは言語の感覚的な側面を指すわけだけれど、感覚的=恣意的であるからこそ、
 表現者の内部でreason why を意識的に考える必要があるのではないか、と。

 
 野村喜和夫は漢字渡来以降の、大和言葉の行方から説き起こす。
 (1)音を転記する万葉仮名からひらがなへの方向性
   大和言葉と一体となり、女性的、述部形成的に、私たちの身体近くにまとわりついている。
 (2)概念を盛る器として、ほぼそのままに使う。
   さながら法秩序の如く、男性的に、主語形成的に、私たちの脳の表に存在している。

 
 
 うまく大和言葉で表現していると思うな。

 たとえば、女性詩は皮膚感覚的な内容と表現に特長があるだろう。
 身体にまとわりついている大和言葉をうまく使って、
 男にはよう言えんところのしなやかで、癒しに満ちた詩を追求することができるだろう。
 もちろん、それを意図的に排除して、男性的な詩を書いても一向にかまわないし、
 女流という冠を外しても通用する優れた女性詩人も、いないことはないだろう。

 漢字の使い手は、理知的であり、
 その詩の内容は、えてして概念的・観念的・主知的になりやすい。
 これは、漢字という意味性優位の文字の、影響の結果であるといってよい。
 

 そういうことを前提にして、野村の説明を聞いてみたい。
 (一部、分かりやすく要約・書き直しをしてあることをお断りしておきたい)

  性愛が
  ぬふたふぬふたふ
  春の泥だ

 と書いたとしよう。そのとき、エクリチュールにおいてどんなことが起こっているか。

 性愛は漢語であり、いわば頭からやってきた。
 しかし、それだけでは詩にならないと直感した私は、つぎに

 それを「ぬふたふぬふたふ」というオノマトペとつなげる。それは、
 「首から下は別人格」といわれるように、首から下の身体をくぐらせることで、

 「性愛」という漢語は、「春の泥」という和語へと、
 転換されたのである、と。

 野村は、四元康祐(よつもとやすひろ)の『言語ジャック』を取り上げ、
 メタ詩、メタ日本語の詩作としての成果を評価している。

 「多くの凡庸な詩人は、詩的言語というものをアプリオリに超出させて、無自覚に勿体ぶった抒情の垂れ流しを行っているが、四元氏は、そうした地点からかぎりなく遠い。
 日本語を徹底して外から扱い、あるいは外へと連れだして、おもうさまびしばしと酷使しながら、日本語というこの可もなく不可もない手持ちの材料によって、とりあえず何ができるかを、徹底して追求する。

 さすがに、よく分かっているね。
 生活詩派の詩を読むと、すぐ分かることだけど。

 言葉を、伝統的詩歌観のまま(アプリオリ)に、
 無意識のうちに(無自覚・無批判に)、
 默説法を濫用し(勿体ぶって)、
 自然的感性の内面吐露(抒情の垂れ流し
 =われ泣きぬれて......なのだ。

 すでに空洞化し始めて久しい日本語の中心部をいいように食いつぶしているだけの、
 「劣化した脳ども用はない。私はもうすこし遠くまで行こう
」、と。

 「劣化した脳ども」というのは、すでに終わっている人たちのことだけど、
 ...余計な注釈だったかな?

トラックバック(0)

トラックバックURL: http://mediaxross.net/xnt/xzx/mt-tb.cgi/11

コメントする

この記事について

このページは、小林由典が2012年1月18日 23:58に書いた記事です。

ひとつ前の記事は「野村喜和夫、日本語エクソダス(1)日本語の起源」です。

次の記事は「現代絵画、視覚効果の世界(1) 上野在森」です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。

カテゴリ別記事一覧

アーカイブ

OpenID対応しています OpenIDについて