エセーニン、詩人とその母

エセーニン詩集から、ロシアの詩人というヤツは!という部分をことさら選んで紹介する。大酒飲みで、たびたび社会規範を踏み外す狼藉をはたらくけれど、どこか純朴で奥深いところがある。

 エセーニンは1895年(明治28)、リャザン県コンスタンチノヴォという寒村の生まれ。

 日清戦争が終わった年だという時代背景を念頭においていただきたい。

1904年(明治37) 小学校入学、
           (日露戦争勃発、『島崎藤村詩集』、与謝野晶子『きみ死にたまふこと勿れ』)
1912年(大正元) 17歳 父のいるモスクワに出て、商店で勤めをはじめる。ボルシェヴィキ創設。
             トロツキー「ロシヤ・インテリゲンチャ論」  (石川啄木没)
1914年(大正3)  19歳 詩が初めて雑誌「ミローク」に掲載される (高村光太郎『道標』)
1915年(大正4)  20歳 処女詩集「ラドゥニツァ」刊行   (芥川龍之介『羅生門』)
1917年(大正6)  22歳 二月革命、エセーニン国王側招応兵を脱営帰郷   (萩原朔太郎
                十月革命、エス・エル左派詩人として戦闘隊に参加  『月に吠える』)
1918年(大正7)  23歳 革命政権とともにペトログラードからモスクワへ。イマジストたちと交流。
                放浪生活が始まる。
1919年(大正8)  24歳 共産党入党を果たせず。仲間と『イマジスト宣言』を発表
1920年(大正9)  25歳 詩論『たましいのいずみ』発表、ロシヤ・フォークロアへの接近
1921年(大正10) 26歳 イマジズムを批判し、決別。    (志賀直哉『暗夜行路』)

1925年 レニングラードのホテルで首つり自殺するまでを記したのだが、保存をせずに文字検索ページを開き、書いたものが消えてしまった。過ぎたものは戻らないので、次に進むことにしよう。

 はじめに取り上げるのは「モスクワの酒場で」
 なにやら、酒場の詩は誰かを思い出すなァ。翻訳は内村剛介、とくりゃあ...



 『モスクワの酒場で』 (1922年)

 詩集は1924年に刊行されている。その前年、トロツキーは『文学と革命』を書き、エセーニンを同伴作家の列に並べた。
 当時とすれば名誉なことだけれど、後になってみればトロツキストということになってしまうね。

 内村剛介の翻訳ですが、時に大胆な意訳もするので、あえて内村版エセーニンとしておこう。
 原稿の写真を見ると、複雑なロシア詩の韻を踏んでいるのが分かるけれど、翻訳ではそこまで移植できないことをお断りしておく。日本語には、韻を踏むという表現がないからだ。

   何者かであろうとするヤツというのは、ちびの頃から際だったところがある。
   自分は詩人でなかったら、かたり、泥棒になっていたはず。

 エセーニンは大酒呑みで、酔うと喧嘩をやらかしたりして、しょっちゅう向こう傷が絶えなかったらしい。黒田三郎みたいだね。
 けれども単なる酒乱ではないのは、

  だが、ちから、不逞不穏のあのちからは
  僕の詩へ流れ込んでくる。

 ...ここだろうね。

 以前に書いたけど、

 「自己の内部に生命の過剰感みたいなのがあって、
 それが、いま突き当たっている問題に対して、
 漠然とした形で、あらゆる方向に突き刺さっていく」

 ...という状態なのだろう。

 この詩を書いたのはエセーニン27歳の時、
 ロマノフ王朝の国王軍衛生兵として招集され、やがて十月革命に出会い、
 すぐさまレレーニンに賛同して、ロシア二月革命を経験し、
 その流れでレーニン率いるロシア共産党に入党しようとするが、果たせなかった。

 エセーニンの屈折した思いが言葉に結晶しはじめる22、23年の頃に、良い詩が生まれている。

 私など、ご乱行の後は、気分が落ち込んでしまうのが常だけれど、
 エセーニンは詩にエネルギーが注ぎ込まれる、というのだ。

 奥村などはエセーニンと同類なのかもしれないな。
 もっとも、大酒飲みの自己弁護みたいな手触りがしないでもないけどね。

   「名うてのろくでなし」 

名うてのろくでなし 薄幸の牢屋ずまいのひとたちを 銃殺するなんてこともなし

 スターリンに密告するものがいたら、流刑は免れないだろう。
 エセーニンが所属したエス・エルの詩人二十人が処刑されているからだ。

 ひとさまになじむ心はつゆ持たぬ。
 世のつねとちがう世界へ入れ上げてしまったおれなのだ。


 このような認識は、北村透谷と島崎藤村の感性の違いとして取り上げたものと通底しているだろう。
 今回のタイトル「詩人とその母」は、
 世の常ならぬ世界の詩人と、世の常を生きる母との確執、
 ...という意味だね。

 エセーニンには「母への手紙」と、「母からの手紙」という対象的な題の詩がある。
 長い手紙なので、一部だけ抜粋しよう。内村訳はくだけすぎている感があるので、少しお上品にする。

  母への手紙

 お母さん、おれを案ずるばっかりに ひどくふさぎ込んでいるというではないか
 ...心配事を押しかくしてさ。
 時代遅れの古めかしいショールをはおり、
 しょっちゅう家の前の道ばたまで 出てくると...

 あおいほむらの夕闇、そこで
 いつでも同じ心配をしてるのだろう?
 いつもの、居酒屋での喧嘩沙汰...そこで
 おれは、誰かにグサリ! 胸元をさされるのじゃないか、とか、ね。

 なあに、たいしたことないよ。お母! 心配するなって。
 それは、年寄りのとりこし苦労っていうものさ。
 そんなにひどい呑兵衛じゃないさ
 会いに行かずにおれが死ぬなんてこと、あるものか!

 この母親の心配は当然のことだろう。
 私が、奥村真に感じた危惧と同質のものだといってよい。
 訃報を知って、えっ!まだ生きていられたの? ということだね。
 肉親である母親は見捨てはしないわけだけど、...。

  母からの手紙

 お前さんが詩人だってことが、
 よからぬ評判立てていながら
 いい気になっているってことが、
 ひどく わたしの 気にさわる。
 ちっちゃいうちから
 鋤鍬とって
 野良仕事でもしていたほうが
 よっぽど ましになっていたのに

   (中略)
 お前ときたら ところかまわず
 子だねを やたら 撒きちらし
 女房でさえ ちょいと気軽に
 人手に渡してしまうんだから。
 家庭もなければ 友だちもなく
 波止場なんてあらばこそ、
 底なし沼の居酒屋へ
 頭からつかりっぱなしで

 わたしらは お前にかけた
 あてがはずれて、
 心が痛み
 つらい思いをしているよ。
 それというのも お前が 詩を書いて
 仕事以外にもっと稼ぎをあげようなんて
 とうさんが
 よけいなことを考えついたりするもんだから、さぁ。

 かせぎがなんぼあったところで おまえは
 私に仕送りするなんてするガラじゃない。
 だから うらみつらみも
 いいたくなるの...
 わたしゃ もう 分かっているのよ
 詩人なんて...
 お金が入るもんじゃない、ってことをね。

 私はもうおさきまっくらなくらしだよ。
 気が滅入るばかり、さ。
 農耕馬さえ、飼えなくなってしまったんだよ。
 でも、お前が家にいてくれたなら、
 そんな窮乏もすっかりなくなるだろうさ。
 お前は だれよりも頭が良いし、
 郡の執行委員会に入れば、
 議長の席は まちがいないもの。

 こういうふうに言われてしまうと、つらいよね。
 才気あふれる啄木だって、「食うべき詩」とか頑張ってみたけれど、
 生活はまなならず、「じっと手を見」ていた。

  育ててくれた親や家族の期待を裏切りたくはないけれど、
 自分の生き方はそこにはない、と絶望的に分かってしまうのだね。

 
 しかし、それが否応なしに「なすべきこと」である、
 という、エセーニンのような人間が、この世にはいるってことだね。

   「来し方」 

来し方 

 うすっ黄色のむくろと陰湿なかげり そのほかには
 なにひとつ残っていやしない。

 おれは 我が身をいたわろうなんて はなっから思いやしない。

 平穏に 無事に にこやかに 生きるなんて!!
 顧みるわが道の 荒涼と寄る辺なく
 しでかしたあやまちのかずかず

 そうであったし これからもそうだろう

 「うすっ黄色のむくろと陰湿なかげり そのほかには
  なにひとつ残っていやしない。
   これからもそうだろう」...というのが、命をかけるということなのだ。

 
 [ 注 ] 躯(むくろ)- 死体。なきがら。首のない胴体だけの死体。

 詩人エセーニンは、自分の死に方を宣言し、全うしたのだね。

  冬なかに花々はないとひとは言う...

 いいじゃないか。エセーニンよ、
 私は冬のリンドウを愛でている。

 意味不明だけれど、お開きの言葉になっているのではないか。

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この記事について

このページは、小林由典が2012年1月13日 23:02に書いた記事です。

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