自閉詩を越えて:エピステーメー・シフト(3)

自己完結的な詩の根底にあるのは反省以前的なコギトにある以上、これ以降の現代思想のプロセスを知ることが必要になってくるだろう。転換点となった構造主義思想を追っていく。

 構造主義についての書物は多数出版されているが、初期のものはその全貌を正当に捉えているものは少なく、またオリジナルのフランス語書籍は、翻訳が十分こなれていないものが多く、読んでも理解しにくいものが多い。ここでは、『知の変貌』(中村雄二郎/昭和53年)を底本にして、簡単にまとめておこう。
 構造主義の特徴である「知の脱中心化・反全体化」という性格は、意識による認識論の枠組みと反照的な様態で提示される。簡単に列挙してみると......

 サルトルの『弁証法的理性批判』において特権的な地位を与えられた歴史学(連続的歴史主義)に対しては、非連続的な構造を

 直接的な人間(の意識による、人間認識)には、ポジティブ(実定的)な言語を対置、

 自由な主体の意識に対し、無意識の世界を、それぞれ対置し、置き換えた。


 ここで注意しておきたいのは、どちらが正しくてどちらかが誤っていると単純に区分けをしてはならないということだ。
 あらゆる事象はスパイラルに回転しながら時間軸を進行してゆく、という宇宙原理を忘れてはならないだろう。
 (これについては別のブログがあったのですが、現在は削除してあり、別ページで解説をしておく)

 意識による認識哲学を内面世界優先思想とすれば、構造主義的考え方は外部世界優先思想だと、区分けができよう。
 両者は時代の推移によって、あたかも円軌道を周回するように位相を転位するつまり位置を変えていく。決して直線的な時間軸で推移しているものではない、と考えるべきではないだろうか。

 中村雄二郎は「対照的、対立的な二つの立場をそれぞれ二つの極、あるいは楕円の二つの中心として含んでいる伝統思想がある。
 これら二つの立場、二つの極は、実際にはお互いに関わり合い、また当然両者の統合も企てられるが、しばしば歴史的に互いに交代し、あるいは交互に表面化して表れるだろう」と述べている。


 さて、上に掲げた対照性のうち、少し分かりにくいのは直接的な人間という表現かと思う。

 『知の変貌』の別の箇所に「人間は、それ自身が認識の対象になるとともに、そうした認識そのものを可能にする条件-超越論的領野-を形づくる主体でもある、というカント的人間学の人間」という記述がある。

 フランスの有名な総合雑誌「エスプリ」の「構造主義特集」(1963/11月、1967/5月)の主要な論文を取り上げて邦訳したJ.M.ドムナック編『構造主義とは何か』のNo.9 「構造主義の哲学」(ミケール・デュフレーヌ)は次のように述べている。
人間を思考するということは、常に思考から思考するもの(者)へと戻らなくてはならない、というまことに根の疲れる課題と常に対決することになるのだ。
 この思考が人間について述べることは、やはり人間が言っているのであり、この、そうと言っている人間が人間であるのは彼自身でないもの、つまり彼のなかの生命、彼を取り巻く文化によるものなのである。
」 

 詩作者が詩を考えていくための基本常識をおさらいしているつもりなので、これ以上この問題には言及しないでおきたい。(私には膨大な検証作業が控えている、ということになるのでしょう。)

 ここで注目すべきことは最後に記述されている「彼を取り巻く文化による」というものの考え方なのだ。(...と、ここでようやく前回の記事と連結してゆく)
 

 前回述べた内部世界優位と外部世界優位という区分は、とりもなおさず観念論的認識と唯物論的認識という対比だという見方もできよう。
 それでは、構造主義は唯物論の系譜なのかといえば、そうだとも言えるしそうではないとも言える幅をもっている、ということに注意していただきたい。(アルチュセールの構造主義的マルキシズム)

 1969年、樫山欽四郎教授の『哲学概説』の講義で、私は「意識は対象を措定し、措定すると同時に措定せられる」という認識のあり方を知った。
 この命題の前半は観念論的認識から現象学へ至る道筋であり、
        後半は唯物論的認識から構造主義へ至る道筋である、
 ...ということになろうか。メルロポンティのいうキアスムという概念を踏襲しているようだ。

(注)positiv (形容詞)実定的(既成的、措定された)
   ...後期ラテン語 positivus は「置かれた、措定された)」を意味


 反省以前的「われ思う」(デカルト的コギト)思考による自閉的な行き詰まりを克服していくためには、
 その思考が外部世界から措定せられているものだ、という視点を持つ必要があるだろう。
 つまり、
 自分を取り巻く人間および社会の習慣や文化といった環境のなかに隠れている様々な無意識のシステムがいかに様々なレベルにおいて私たちをバカの壁で覆っているか!
 ...を明らかにしていかねばならないわけだ。

 それらは言語のうちに構造として形成され(J.ラカン)、顕在化してくるのだといってよい。

 ソシュール言語学によれば、
 ・人間の知識というものは言語的な作用によって編集構成されている、
 ・その言語的作用の大半は分節性によって構成されている、
 しかし
 ・言語的分節をもってしても解明できない知識がわれわれのどこかに潜在していて、
 ・その潜在性の出入りによってこそ言語的分節も成り立っているのではないか?
 ...ということである。

 (注)分節:区画し、分割し、分別すること


 言語が世界を開示する

 我々が生きている現実世界は...、
 「無数の「名」によって現象する複雑で限りない意味連関組織、意味分節単位の綱目構造」
 ...としての力動的な全体性であり

 人間はこの言語によって開かれた世界の中に住み、
 この言語の中で存在を認識し存在について考える、
 ...存在である。


 語り得ない、ということ

 言語的分節が始まる以前の「生の自然、存在そのもの」を、私たちは捉えることはできない。

 簡単な例をあげると、犬や猫の視覚というのは動体視力が中心であり、じっと動かないものを人間のように判読することはほとんどできないということだ。

 私は釣り好きで『タナゴ釣り奥義』というE-Bookを書いていますが、魚にはエサと釣り鉤とハリスとの区別はつかないと説明している。ハリスのついた鋭い鉤がついているから、このエサは危険だ、などとは思いもしないわけです。

 はじめて自分の影を意識した幼児が、自分の影を怖がり逃げ回る、という映像がYouTube にある。
 影という言語認識が成り立つ以前では、影は何かしら不気味で怖いものでしかないのだろう。


 『知の変貌』から、少し引用してみたい。

「まことに構造主義において言語の持つ意味は大きい。
 人間と文化にとって言語とはなんであるかが徹底的に考えられ、
 言語概念が拡大され言語意識が深められるとともに、逆に、そのような言語の相の下に、
 人間とはなにか、文化とはなにかがが鋭く問われたのである。

 (中略)

 歴史はなによりも構造によってよく問い直されるように、
 人間はなによりも言語によって
 意識はなによりも無意識によって、
 ...よく問い直される、ということなのである。


 現代詩を書く人間は、この領域において「哲学的直観、あるいは詩的想像力」を賭けていく必要があるのだ。
 はっきり言おう。
 バカの壁に取り囲まれて四畳半的(田山花袋的?)詠唱詩を書いている輩には、墓石の蓋をして、石棺化してしまう方がよい。放射性物質と同じで、人間の感性の根の部分を慢性毒性的に麻痺させる老害という公害に等しいものなのだから。

 すでに述べたように、構造的知は私たちが自然に馴らされ・受け入れ・身に染みついている習慣・文化・習俗における隠された無意識のシステムを自覚させ、明示していくものだ。

 とりわけ、我が国においては見えない制度が自然化している「日本というシステム」によって、私たちは飼い慣らされている状況にある。それが、今日、大衆の感じている不安感であり閉塞感であったり、お笑いで気を紛らわすことに連なっている部分があろう。そこに埋没している限り、八方ふさがりで自閉していくのは当然の帰結である、ということを自覚しなければならないのだね。


        「エピステーメー・シフト(4) 」に続く

         2011/12/08-12/12

 

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このページは、小林由典が2011年12月12日 00:25に書いた記事です。

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