広角にしてクローズアップ、宮西寛人の絵画まなざし

伊藤画伯に誘われ、銀座のあかね画廊で開かれた宮西寛人展を訪れた(9/16)。自由美術展で「いいな!と印象に残っていた作風でしたが、今回はじめて作者を知ることになりました。

 作風がユニークであるために印象に残っていたということなのだろう。なぜか、懐かしさを覚えます。


 それで、絵の印象を語りながら、ご本人に(私の頭にあった)ファースト・インプレッションの絵の存在をそれとなく尋ねてみて、以前に出品したご当人の絵であったようだと...。

 さて、つぎに紹介しするのは宮西寛人展の招待状に印刷されている「西町商店街」というF100号の大作です。

西町商店街

 ビルの5階あたりから見下ろした「下界」の有様ですね。

 この高さというのは微妙なもので、私たちが恐怖感を感じる高さ(10~15m)を突き抜ける前後の高度であり、男性ならば現実感が薄らぎ意識が少しばかりハイになる高さにあるし、女性なら依然として足がすくむ高さといえる。

 その高さから下界を見下ろし、そのまま遠くにひろがるビル群をも望んでいる。
 35ミリカメラのレンズでいうと28ミリ~24ミリくらいの広角レンズで覗いたような画角かな...
 ふつう、広角レンズで景色を広く収めると、点景となる小さな像は実際以上に遠くに退いてしまうのだが、この絵ではむしろ人々の姿が引き寄せられたように大きく描かれている。
 ナチュラリズムの遠近法ではなく、心の遠近法がここに見られるといってよい。
 画家は駒込高校の教諭だという。学校のある下町的な千駄木周辺を俯瞰的に描いているわけですが、そのまなざしは色調にも表れているとおり温かだ。
 けれどもそれだけならば、この絵は独特の画角で庶民風俗を描いているというだけにとどまるだろう。
 しかし、けっしてそれだけではないようだ。
 (担任を持っている)美術教師としての習い性なのか、この画家の絵はよく見れば見るほどさまざまな計算あるいは目配せが行き届いていることがわかってくる。
 そのひとつが、先にあげた微妙な高さの感覚ではないだろうか?
 現実感と非現実感、あるいは高所恐怖と高所ハイのはざまに位置している高度の設定...
 現代版「三丁目の夕日」的風景の安らぎ感に、ジワリとにじみこんでくる高所恐怖の不安感のようなもの。
 それが、遠景のビル群に微妙な心理的陰りを与えているかのようだ。
 この空の色?!
 さすがに、遠くのビル群に人の姿は描きこめはしないのだから人間くささからは遠のき、無機質なオブジェと化すのはいたしかたないだろう。
 ビル群は手前の建物とは対照的に傾いた日を浴びて明るく白っぽく浮かび上がっている。
 私はこの対照性に思わず堀川正美の詩を思い浮かべていた。そう、以前にとりあげた 『秋』 です。
 

     やわらかいものから離れた 人間の
     手の旅が 都市となって
     墓所は各地にきらめくけれども...

 画家、宮西寛人さんは堀川正美同様、やわらかいものと硬いものとを対照させる文明批評のようなまなざしを持っているといえるだろう。

 やわらかいものに対する温かみのあるまなざし。
 それは庶民生活やレトロな風情をもつ昭和期の建物、そこにゆっくりとながれる時間などにそそがれている。

 他方で、背景のビル群に象徴される現代文明の建造物や風景への心理的な距離感や不安感のようなもの。ビルは強い日ざしにホワイトアウトしそうなほどだ...。


 私はF100号に描かれた遠景を見ながら、30年前インドのバラナシ(ベナレス)で、ガンジス川の有名なダサスワメート・ガートにちかいアパートの屋上から眺めていた光景を想い出していた。
 気温50度を超すこともある乾期の終わり近い夕方、雨雲がもたらす陰と風に一息ついていると、にわかに雨が降り出したのだった。

 その時である。
 すべてが灰褐色の石造りの建物(4~5階建て)群の窓という窓、路地という路地から大きなどよめきが湧き上がったのだ。
 カラカラに乾いた大地と道路、建物そしてそこに生きる人々の待望の雨、うるおいだった。


 この絵のビル群のそこかしこにも同じように人々が生活しているわけだけれど、やわらかいものから離れた現代人として棲息しているのだろう。
 節電、省エネといっても、湯水のようには浪費しないというだけ。
 バラナシでは、サモサやプーリを包んでいた包装用木の葉は、路上に捨てられるやいなや牛がそれを食み、牛糞は調理の燃料として焚かれていた。
 電気の来ていない家の子たちは窓から身を乗り出して、街路灯の明かりで本を読んでいた。


 この絵は遠景の描かれ様と対照されて、手前の庶民生活に注がれるまなざしが深みを帯びてくるという構成をとっているかと感じられる。

 もう一点の100号の大作は町の交差点付近を描いたものだが、そちらの方はぐっと立体感が際立っており、中央メイン画面のの逆三角形で不安定な俯瞰図を、左右の道路を隔てたビル群と背景が遠くに行くほど狭まっていく構成によって安定感を得ているところが、入念に計算された構成を感じさせる。
 左右のビル群は明と暗に描き分けられているのも、計算された効果をもたらしているだろう。
 少しばかり構成意識が気になったけれど、画学生の教材として解説するなら様々に工夫された意図がみられるので、教材としてたいへんに参考になるだろう。教師としての習い性が現れている様で、出来過ぎの感がするのは先入見のなせるわざなのかもしれない。


     手の旅が 都市となって
     墓所は各地にきらめく
 


 と詠んだ堀川正美ほどペシミステイックではない若い画家の描くビル群は、千駄木周辺の風景をモデルにしているということもあって、「墓所」ではなく、下町的都会生活を宿すオブジェとして命脈を保っている様に見える。
 上記の大作2点が自由美術展に出展されるそうです。

 追記
 第75回 自由美術展は9月28日~10月10日まで(10月4日は休館日)
 国立新美術館(東京都港区六本木7-22-2)

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このページは、小林由典が2011年9月20日 10:34に書いた記事です。

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