マイケル・ポランニー「暗黙知の次元」(2)

ポランニーは暗黙知について、様々な実験・研究事例を列挙して、詳細に検討を加へています。 それらを読むと、じつに人間は多彩な認知感覚を持っているな、という驚嘆を覚えるだろう。

 (ハンガリー語の発音を調べてみると、非インド・ヨーロッパ語系であり、<nyi>はロシア語の<ы>の系統の発音ではなく、<nnj>のようなので、ポランニーと表記を改めることにします。)

 私は生命科学の分野で仕事をしていたこともあり、あらゆる生命体は外部の刺激や攻撃的要素から生命を防御していくシステムを備えている、ということを漠然と認識しています。

 たとえばゾウリムシのような単細胞生物でも、快・不快の原則に従って不快なものを避ける術を備えているわけです。
 あるいは、植物でさえ、虫に葉をかじられると即座に<非常事態警報>のようなフィトンチッドの類を出して、他の仲間に防御物質の分泌を促す、というようなことがある。

 あるいは、これはいわゆる「エセ科学」とレッテルを貼られているかもしれないけれど、植物の葉をセンサーにして、人間の病変を感知する実験とか...。
 人間の体自体もセンサーそのものとしての潜在的な能力を持っているようだ。私も経験しましたが、バイディジタル・Oリングテストなども、人体がセンサーと機能することを利用した方法かと思う。
 もっと言ってしまえば、MRAのような「核磁気共鳴分析装置」もまた人体をセンサーとして利用している、といってよい。

 私はこれらの研究を頭から否定するつもりはない。「エセ科学」とレッテルを貼る人たちの素朴な科学信仰単細胞ぶりの方が、むしろ遺棄すべき事のように思うほどだ。

 ひとつだけはっきりと言えることは、あらゆる生命体は、生命を維持・防御するための可能な限りのセンサーを備えており、とても五感という狭い枠に収まるものではないということですね。

 人間の場合はあらゆる生物の中で、視覚の総合的な機能が圧倒的に優位であり、他の感覚の発動を抑制しているという事態になっている。だから、視覚以外として、触覚や味覚、聴覚、嗅覚程度までしか知覚として意識できないでいるのだと思う。


 それでポランニーはこれら五感以外のセンサー機能に注目して、潜在知覚ととらえ、その発現のプロセスを解明しようとしているわけですが、機能的側面・現象的側面・意味論的側面から第四の側面である存在論的側面を導き出したわけです。

 ここでポランニーは、哲学者の考える「知覚は投射を含まない」という考えを、科学の立場から否定することになる。

 いまや、暗黙知の様々な例で、まさにこの種の投射が存在していることを、明らかにしてきた。さらに、我々がもともと身体内部の過程をそのものと感じてはいないという事実は、いまや重要なことではないと思われる

 さて、ここでサラリと通過してしまいましたが、人間の知覚は視覚優位であるということは実は、ギリシア哲学、キリスト教、デカルト的理性に通底にする言語=視覚中心主義を指しているのであって、私自身はそれに異を唱える立場であろうか、ということですね。

 デカルトの「われ」とそれを「対象」として意識する知覚の対立は、メルロポンティによって二極対立ではなく認識の両義性として捉え直されキアスムという概念が提唱されている。

 彼の認識論を継承したのがミッシェル・セールの『五感 混合体の哲学』ということになる。

 一方で、フッサールの後期現象学が視野に入れていた見えないものについて、メルロポンティが取り組んだ『見えるもの見えないもの』は執筆半ばで彼の遺作となってしまった。

 その遺志をついだのが『現象学と見えないもの』を発表したミシェル・アンリの生の哲学であるという流れがある。

 以上のような下地があって、マイケル・ポランニーの暗黙知は理解されねばならない。

 ことは、さほど簡単ではないと...。

 とりあえず書きかけの原稿に区切りをつけて、公開しておくことにします。

      (初稿 2011-06-27) 公開(2011-07-29)

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このページは、小林由典が2011年7月29日 22:59に書いた記事です。

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