マイケル・ポランニー「暗黙知の次元」(1)

ポラニーの出発点は、「我々は語ることができるより多くのことを知ることができる」という事実である。
 多分に西洋的なこの命題に私は多少なりとも違和感を感じますが、まずその辺から取り上げていきたい

  この労作は1962年イェール大学で行われた講義を元に、書かれたものであり、今日からすると部分的に古いところもあることを念頭に置いておく必要もあるでしょう。

 空海の不立文字という認識論を知っている私たちには、「語ることができるより多くのことを知る」という記述は「何を今さら」と返したくなろうが、詩を書く者として読めば、考えるべき点が見えてこよう。

 以前に詩人の言葉として谷川俊太郎の次の言葉を取り上げました。

「日本人は自分の中に悲しみと呼ぶのがいちばん適切な感情があったときに、それは素直に「悲しみ」っていえばいいと思っている。むしろ「悲しみ」以外の言葉で言ったら、それは悲しみでなくなる、と思っているのではないか。
 西欧の人たちは「悲しみ」という感情があったら、徹底的にそれを細かく書こうとするんじゃないかしら。」

 言葉に対する考え方の違いですね。
 西洋人は徹底的に語り尽くし、論じ尽くそうとする。日本人は言わぬが華だと詠唱で終わらせてしまう。
 感情を吐露するのが感動の表現だと思う古めかしい感覚は今日でも蔓延しているけれど、言葉を尽くして対象に肉薄していくことに歓びを感じる知的な「感動」もあるのだ。そして、そのロジカルな思考には個人的な要素が含まれているのだ、とポランニーは説く。


 プラトン以来のロゴス中心主義にあっては、言葉は思想そのものだった。

 ハンガリー出身のMichael Polanyi は西洋哲学とあまり接触や交流もなく、ロゴス中心主義の西洋伝統の中で、「語ることができない認知」の世界を指摘したわけです。

 日本語では顔色をうかがうという言葉がある。顔から様々な感情を読み取ることは、言葉で説明しきれない認知なのだとポランニーは考えます。 
 ふと頭に浮かんだのはレオナルド・ダヴィンチの「モナリザの微笑み」です。

 たしかに私たちはモナリザの表情から、曰く言い難いという便利な言葉に落ち着いてしまう何らかの感情を読み取るでしょう。

 ポランニーは「言葉を用いても語ることのできないものがあとに取り残されてしまう」として、それが伝わるのは「言葉では伝えられないものを相手が発見するか否か」なのだとして、主体的な認知を提唱する。受け手が理解しようという主体的な気持ちを持たなければ、伝わらないだろうと。

 ここで注意しておきたいことは、「語り尽くせない」ことではなく、「語り得ないもの」であることです。

 語り得ないことをそれに先だって知っている、という知識をポランニーは暗黙知と命名していますが、そのあり方をかれはゲシュタルト心理学に見いだします。

 ゲシュタルト心理学では、
 部分的な個々の細目については明確に語ることができない。にもかかわらず、 諸細目について感知していることを統合して全体的認知を得る、と考える。

 ポランニーは、このゲシュタルト的統合認知説を「認知主体」的に転換した形で援用します。つまり、
(1) 要素的な諸細目の情報が自ずと均衡のとれた状態に達する、という自律的(受動的)認知を、
(2) 経験を能動的に形成する活動の結果として成立する認知だと、したわけです。

 ゲシュタルトの構造は、こうして暗黙の思考の論理の枠内で組み替えられることになる。それにつれて、問題全体の範囲はゲシュタルト理論よりも広がりを増し、また、異なる眺望も開けてくる。それは、科学や芸術の分野での天才がもつ暗黙的な力に見られるものである。 (中略) 

 知覚はゲシュタルト心理学において関心の中心をなしていたが、いまや知覚は最も貧弱な形式の暗黙知と見られることになる。それは人間のより高度の創造的な力と、知覚作用で重要な役割を果たす身体的過程とを橋渡しすることになる。


 ゲシュタルト的統合認知を主体論で再構成したポランニーのこの部分の論は、少しばかり楽天的ではないかなと思われます。

 脳科学が今日ほど発展していなかった当時は、人間の認知行動は心理学的に捉えられていた。
 1949年にラザルスとマクリアリによって示された実験結果や、1958年にエリクソンとキュエテの実験などは「潜在知覚過程という認知のあり方を明らかにしたとされる。

 簡単に言えば、二つの出来事があって、その両方とも認知しているが、語れるのはその片方だけであるような場合にも、その二つの間になりたっている関係を捉えることができる能力、ということだ。

 暗黙知はつねに二つあるいは二種類のものを含んでいること。
 その二つの項目の結合は暗黙的なものにとどまる。(説明し得ない)

 両者を介在するのは機能的関係である。
 それは、あるものへと注目するため、他のあるものから注目する、近接的な第一項から遠隔的な第二項へと注目すると。

 多数の無意味な文字列の中で、ある特定のづづりを示したあとでは電気ショックが被験者にあたえられる、という実験では...
 ある特定のつづりは、「電気ショックの発生」を表意している。
 「電気ショックの発生」は、被験者にとってつづりの意味にほかならない。

 顔の認知でいえば、我々は顔の諸部分を、我々が注目する全体の顔との関連において感知している、ということになる。

 第一項の「顔の諸部分」というのは、ある種のパラメータとして、第二項において相貌を見せる、という感じだね。これをポランニーは「暗黙知の現象的構造」とよぶことができるという。


 今日の脳科学からすると、心理学で行われた様々な実験は脳とくに視覚による認知行動として細かく分類されているかと思う。身近な例をあげれば、就職試験などで行われる簡単な能力テストがありますね。
 テストでは、たとえばジグソーパズルのようなものと同じものを、いくつかの候補の中から見つけ出すとか、問題数の多い算数の設問は、ある法則性を発見して簡単に暗算ができることを見いだす、とか。

 これらは、視覚におけるパターン認識能力の問題であったり、数字や記号・文字の反復や法則性の発見といった認知能力のテスト、ということになる。

 このようなテストの場合は、電気ショックといった第二項を用意せずとも、問題を解くという動機によって、本来は第二項に関連づけられるべき暗黙的な法則性を見いだしている、ということになろう。


 ポランニー自身が「科学や芸術の分野での天才がもつ暗黙的な力」と述べている認知能力の例として、アインシュタインの居眠りをあげておきます。
 アインシュタインは考え事に行き詰まったり、堂々巡りとか、頭の疲れを感じたとき、肘掛け椅子に腰掛けて一眠りをした、と伝えられている。
 まどろみの際にあるときに、ぱっと答えが発見されるのだという。

 昔から文章を練るには馬上・枕上(ちんじよう)・厠上(しじよう)と言われますが、ひらめきのひとつが寝入り端(はな)であることは興味深いことです。

 私自身、ひらめきを得る方法として、寝ている間に考えるというやり方を自然に身につけました。
 徹底的に何かを考えたあと、あるいは情報がオーバーフローするほど脳にインプットしたあと、問題解決の方向性と期限を設定して自分の潜在意識に頭の整理をお願いする。

 すると、目ざめまぎわのまどろみの時やシャワーを浴びているときなどに、フッとひらめきを得る。
 実際に、詩人の多くはこういうやり方を経験的にやっていることを、現代詩手帖のアンケート記事で最近知りました。

 脳科学では海馬が記憶や空間学習を司っているということですが、脳が自律的に情報を整理するプロセスは問題意識という第二項があって、情報整理の方向性が決定され発動するようだ。

 つまり、ゲシュタルト的な総合認知は、ポランニーが説く「暗黙知の現象的構造」を前提として成立するということで、両者は別物ではなく表裏一体なのだと考えた方がよいだろう。
 たとえば、アンテナを張っていると情報が向こうからやってくるという現象。これは問題意識を持っていなければ、それらの情報に意味を見いださないために見過ごしているからだ、といってよい。

 これはソシュール言語学におけるシニフィエ(意味するもの)と、シニフィアン(意味内容)とが表裏一体であるということに通じる脈絡のうちにあるように思える。


 ここで問題となるのは、暗黙知とは、ポランニーが例示した天才的ひらめきそのものなのか、あるいは直観的認知なのかということだ。両者はけっして同じものではない。
 あるいは、暗黙知とはひらめきと直観的認知と、両者を含む認知のあり方なのだろうか?

 マイケル・ポランニー「暗黙知の次元」(2) に続く

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このページは、小林由典が2011年6月23日 20:19に書いた記事です。

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