「言葉という思想」(吉本隆明)から

日常的な言葉使いが言葉の意味性や伝達性をめざして使用されるのに対して、詩のことばは非指示性や非伝達的な側面(感覚的な側面=シニフィアン)に向かって追求されるものだ。

 言語は、それ自体、声帯から発せられた空気の振動であり、漢字やカナなどの記号でしかない。
 しかし私たちの思いの<ある表現>だとして、あるいは<文字に固定された記号>としてみたら、言葉は<ある価値>をおびてくる。

 言葉はある事がらを指し示し、それを他者に伝えるという基本的で自然な機能を有している。
 言語の価値は、この言葉の働きに基づいて付与されるものだ。。
 このことは、だれでもが、言葉の学習過程をつうじて自明のことのように理解しているだろう。

 けれども、そのことを個々の言語表出について、話し手や書き手の思いや意志などとの関係でみていくと、先にあげた自然な機能のほかに+アルファーの何かが付け加わって、杓子定規ではない言葉の陰影が生まれてくる。

 ・それはある事がらをぼんやりと指し示そう、とか
 ・よりはっきりと指し示そうとか、
 ・ここは強調して伝えようとか、
 ・あいまいに伝えようとか、

 ...という意図あるいは潜在意識が、音声や言い廻しのリズムを変化させることになる、と。

 詩を書く人は、とくにこの基本的なことがらを知っていなければ、表現の美あるいは価値ということを理解することはできないだろう。
 詩の批評で、意図が不明瞭だとか、にべもない言い方だという形で否定的に評する人は多いのだけれど、それは意図的か、それとも無意識に潜在意識が作用していることの表れだという基本的なことを捉えていないことが少なくないと思われる。

 ...言葉は話し手や書き手の意識や意志と関連させてかんがえるとき、ある事がらを指し示し、それを伝えようとする無意識の、あるいは意識されたモチーフがあるのですが、このモチーフや目的とはさしあたりかかわりない、ある普遍的な表出を実現しようとするものだということです。
 いいかえれば、言葉は<指し示し><伝える>という機能を実現するのに、いつも<指し示さない><伝えない>という別の機能の側面を発揮するということなのです。
 わたしたちが、ときとして何かを指し示し、伝える必要がありながら、話したり書いたりすることがおっくうであったり、苦痛だったりするのは、この<指し示さない><伝えない>言葉の機能の側面を使わなければならないからです。


 原文に<>や太字変更を加え、理解しやすいように書き直してみました。すっと読み過ごしてしまいかねないところですけれど、基本的で核心的なことをいっていますね。

 この部分の吉本的言い方は、難しい言葉を使っていないけれど、分かりにくいです。指し示すために、指し示さない機能の側面をつかう、伝えるために伝えないという機能の側面を使う...

 頭がこんがらかってきますので、図で示して整理しておきましょう。

言葉という思想 私たちは『言語にとって美とは何か』で用いられた指示表出と自己表出という用語によって、何となく理解したような気になっているところですが、自己表出というタームは本来ならば「自己増殖」とでもいうべきことのようだ。

 自己表出というと、感情表現のような意味で受け取られがちであるけれども、違うのだね。

 あらためて、『言葉という思想』から、引用しておく。

 <...のために使われる>言葉...そのものの目的性

  <指し示すこと><伝えること>のために使われたことばが、
→ <指し示すこと><伝えること>としての言葉という性格自体をもつようになる

 つまり、<のために>言葉をつかっても、つかわれた言葉は<として>の性格を同時に備えていることになる。
 その果てには意図的に、言葉を<として>性格だけでつかおうとする欲求が生まれてくることがありえる。

 <指し示す><伝える>という用い方からできるだけ遠ざかったところで、ひたすらある内的な状態の等価であるような側面においてだけ言葉を行使する。
 その言葉は使用性を喪失するような使用性であり、また普遍的な等価であるような価値表現をもとめる言葉になる。

<指し示すこと><伝えること>という言葉の使用性は、さしあたってそう意図するかどうかとはかかわりなく実現されてしまうものをさす。(否応なしにデノテーション的意味をもつ)

 けれども何ものかの等価形態のようにおかれる言葉は、そのように意図したときから<指し示すこと><伝えること>という言葉の自然形態のようなものを忘れ去るというべきか、意図的にそれから離脱しようとするのではないか。

 使用価値

  言葉が美的な次元に跳躍するということはこの非指示的な、そして非伝達的な側面を強調したり誇張したりするためにのみ、言葉を行使するということを強いられる。

 決して使用価値といったものが第一義にあるのではなく価値の自己増殖(=自己表出)こそが文学(言語の美)の本質的な衝動なんだということです。この自己増殖の過程を言葉を媒介にして成就していくということが、たぶん文学の芸術性の基本的な形になるだろうとおもいます。

 <としての特性>...人間の関与の仕方→価値づけの本来的な意味はこちらにある

 価値の自己増殖

  言葉の世界は相互に関連したり、錯綜したり、山や谷のようにうねって飛びかっている。 その中で、とくに言葉が美として出てくる形態が文学を成り立たせている。そうするとそれ以外に、

・言葉が単なる記号としてでたきたり
・あるいは伝達目的のための表現であったり、と錯綜している。

 いったん美的な言葉の世界のようなある普遍的な価値づけの世界に入り込み、それをいわば目的なき目的、あるいは使用性なき創出、そして創出それ自体の世界からみるようになると、すべては言葉の<概念>のうえに浮遊するようにみえる。

 たいへん原理的なことを語っていますので抽象的な話になっていますけれど、簡単に言ってしまえば、文学とくに言葉の芸術である詩の価値とはすなわち言語の美の問題であり、それは意味の伝達や使用性にではなく、非伝達的であったり非使用性であったりする言葉の使い方が産み出す世界にある、ということになるだろう。

 それで、私は何を言いたいのかといえば、言葉の表現における本質的な世界を追求している高度な表現に対して、言葉の辞書的な意味(指示表出)や大衆文化的ポピュリズムから、分かりにくい・難解だという揚げ足とりが出てくるのは、明治の昔からくり返されている不毛な話だということですね。

 以前に大岡信が蒲原有明について述べたことを取り上げましたけれど、安東次男もこのことについて書いておりますので、次回はそれを取り上げます

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このページは、小林由典が2011年6月 4日 00:04に書いた記事です。

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