素朴な「科学信仰」の諸問題

我が国では、科学的といえばきわめて客観的な方法であるということと同義語のように扱われている。けれども、認識論的にみればデカルト的コギト、反省以前的なコギトですね。

 科学的ということと客観的ということの間には、認識論的な深淵が横たわっているのだ。

 科学的思考というものは、絶対的な客観性を意味するものではない。きわめて限定的な条件の下に成立する方法論のひとつだ、といえるだろう。そもそも、科学的思考の源流はデカルトにあるのだけれど、哲学と科学とが明瞭に区別されていない時代の考え方なのだね。

 そういうと、すぐに話の続きも確かめもせず「非科学的な言辞を弄する」などと反発をするムキもあるだろうが、それこそまさに「科学」信仰にはまっている人間の思考なのだろう。

 第一の問題点は、人間の認識はどのようにして成立して何によって(その無謬性=正しさを)保証されているのか?という認識論をいささかも踏まえてはいないこと。
 簡単に言えば、科学者というのは自分が身につけてきた常識的判断力を疑うことなき基準として、思考を展開しているということだ。何度も言うが、それはデカルト的「反省以前的なコギト」なのだ。

 物理・化学の分野ですぐれた業績をあげたマイケル・ポランニーは、やがて科学哲学に転向し、主著『個人的知識』を著すことになる。ポランニーは「科学的な認識は普遍的で客観的なものである」という世間一般の通念を否定して、「科学的認識はじつに個人的な認識である」ことを開示してみせた。

 『暗黙知の次元』(マイケル・ポランニー)の実質的監修者である伊東俊太郎博士は、序文の中で次のように述べている。

 人はしばしば「事実に基づく客観性」を語る。しかしその事実をその人はどのように観て、どのような洞察により、そうした客観性をかくとくしたのだろうか。その探求者の主体はどこにいったのだろう。
 真に新たな客観的真理はその人の主体的研究によってのみ確立される。

 事実というのはデータで示される。しかし、そのデータが何を物語り、指し示しているのかは研究者の主体的な判断に拠るところがあるのだと、私は考えている。
 この問題に相当する具体例を、後ほど取り上げておきたい。 


 第二の問題点は、科学とは分科の学であり、何かを研究するばあい、その対象の単一な要素を抽出して他の要素による影響を排除するという条件設定をするということ。
 研究者はそのことを十分に理解しているし、論文などでは研究の範囲や期間その他条件設定を明示し、言葉の定義もきっちりと提示して、可能な限り恣意的な解釈がなされないように限定に限定をかさねる、といってよい。


 つい最近のことを例にとれば、東京電力福島第一原子力発電所1号機原子炉格納容器への海水注入の問題がある。
 再臨界の危険性を問われた原子力安全委員会の斑目春樹・委員長は何と答えたのか?

 この発言をめぐる報道は錯綜していて、「再臨界の可能性はゼロではない」というあいまいな言葉で、幕引きがなされたようだ。官邸側の受けとり方は、科学の条件設定ということをまったく知らずに、「再臨界の可能性がある」と理解したのかと思う。
 けれども、「それでは私は原子力の全くの素人だ、ということになってしまう」と、斑目委員長は憤慨した。勝手な解釈をして、発言の論旨を取り違えている、ということなのだろう。

 この第二の問題で取り上げるべき本質の問題は、科学とは限定条件の下でのみ成立する分科の学であること。それは、物質を扱う自然科学では通用するけれども、生命の領域や人の心など精神的な世界では、必ずしも客観的たりえないということです。
 なぜならば、生命や精神的な領域はつねに全体的なものの一部が現れてくるもので、多くの変数的要素を含んでいますから、一定の法則性で測りやすい非生命物質のようなわけにはいかないからなのだね。


 第三の問題は、科学者でない人たち、つまり門外漢は科学的法則などの適用範囲を熟知しておらず、それを逸脱して対象に適用する過ちが世には蔓延している、という点。

 科学信仰という場合、ほとんどこの第三の点を指摘すれば足りるわけですけれど、ポランニーの論考は主として第一の問題を詳細に追求しているわけです。
 私自身、曰く言い難いあるいは不立文字・以心伝心という暗黙知を肯定する立場ですけれど、ポランニーは西洋人としての思考の常として、非常に詳細な分析的思考を展開しています。

 いってみれば、暗黙知という超科学的認識をあくまでも科学的に解明しようとしている、というきらいがあろうか。あまりにも詳細な分析的思考は、私としては疲れるだけのような気もするが、この書を読み終えて何度も検討を加えないと論じられない話ですから、続編で取り上げることとしたい。
 とても簡単に理解したと語れる話ではないからだ。

 今回は、主として第二の問題そして第三の問題について、検証しておくことにしたい。

 以前に別のブログで「恋愛の賞味期限」というNHKの番組を紹介したことがありました。
 これはカナダの女性人類学者、ヘレン・E・フィッシャーが発表した「仮説」を脳内物質の分泌というデータで検証しようとするものでした。

 科学の研究というのは、ある未解決の問題や疑問点について、一般的な基礎データや観察などから「仮説」をたて、それを詳細に検討していくというプロセスをとることが普通です。
 この場合、仮説と合致するデータが99%出てきたとしても、1%の例外的データつまり仮説に合致しないデータが出てきた場合、科学的に証明できたとはみなされません。その1%の例外はどのような意味を持つのかが検証されねばいけません。

 ヘレン・E・フィッシャーが行ったのはおよそ62カ国にわたる恋愛と結婚に関する統計学的な調査でした。これは疫学的調査といいますが、大まかな傾向をつかむことはできますけれど、例外も少なくはない方法ですから、「仮説」が学説として認知されるには、他の裏付けも必要なはずですね。

 ヘレン・E・フィッシャーの統計によれば、ほぼ4年前後で恋愛中あるいは結婚したカップルが別れたり離婚をする数が多かった、ということでした。

 これに関して、進歩の著しい脳科学の立場から格好の材料として、恋愛のメカニズムが研究されてきていくつかの恋愛と結婚に関係すると考えられるホルモンなどの働きが関与しているのではないか、という事が分かってきた、ということです。それによると...

 恋は盲目というドキドキ感に満たされて男女が一緒にいられる時間は約3日間が限度であるらしいが、いったん離れ離れになるとまた回復して、恋愛感情を持続できるのはほぼ3年くらい、というのが生物学的な期間であると。
 ここで作用しているのはPEA(フェニルエチルアミン)という、別名を「恋愛ホルモン」というホルモンで、同じ相手について分泌が持続するのはほぼ2~3年なのだという。

 これは、生物学的に子孫を残す本能として、人間だけでなく他の動物でも見られる法則ですね。
 
 NHKの番組では「恋愛の賞味期限」として、この恋愛ホルモンの働きをメインにヘレン・E・フィッシャーの仮説を、(脳)科学的に証明された、という論調で報道していたように思う。


 けれども、脳内物質の消長だけで、ヘレン・E・フィッシャーの仮説が正しかったとするのは短慮であろう。
 第一に、脳内物質の検証はPEAだけでよいのか?という疑問。もちろん、他の物質についてもチェックはされているはずだけれど、それがすべてだと言い切れるのだろうかという疑問が残る。

 さいきん、ハウスシック(室内空気汚染)症候群について、従来の対策が盲点をもっていたという報道がなされたのをご存じの方も多いと思う。

 これまで、厚生労働省は、シックハウス問題に対し、住宅内空気環境調査を実施して住宅内に多く見られた物質を中心として、物質の人体に対する影響を考慮して13種類の揮発性有機化合物について、濃度指針値を示している。

厚生労働省による濃度指針値のある物質とは、...

・ ホルムアルデヒド ・アセトアルデヒド ・トルエン ・キシレン ・エチルベンゼン ・スチレン ・パラジクロロベンゼン ・クロルピリホス ・テトラデカン ・フタル酸ジ-n-ブチル ・フタル酸ジ-2-エチルヘキシル ・ダイアジノン ・フェノブカルブ

 以上ですけれど、以上の基準をクリアした製品を使用している家で謎のハウスシック症候群が頻発していると。

 調べてみると、個々の基準はクリアしていても、総体的な総量としてあるレベルを超えるとハウスシック症候群が発生することが分かった、という。

 同じことは脳内物質でも言えるのだろう。個々の脳内物質の作用だけでなく、複合的な働きがあるのではないかと...。

 同じ番組の中で、男女の脳の性差も取り上げていたように記憶している。
 子どもの頃は男女の脳に特徴的な性差は見られないが、思春期頃から性差が起こり始まるという。

 女性の場合は左右の脳をつなぐ神経線維の大きな束である脳梁が発達するために、論理的思考と感情との連絡が密接になっていくのだとか。
 それと女性は記憶を司る海馬の発達が男性よりも進むということなど、いくつかの特徴的な発達をみる。

 一方、男性では扁桃体という、主として危機的状況に対処する脳の領域の発達が顕著となる、など古代の狩猟生活の痕跡に由来する(のかもしれない)機能が強化される。

 けれども、このようなデータが何を意味するのかとなると、起源説や適応説など要するに「解釈」の面が加わってくることになろう。


 いずれにしても生命科学というのはひとつの事象にも多くの要素が絡むので、物理や化学のような純粋条件下での観察と検証というのはあり得ないわけです。
 この例でいっても、第一の問題に第二の問題そして第三の問題が含まれている。

 次に、もう一つの不定要素として脳内物質以外の精神的な要素ですね。
 人間は犬ネコのように、ホルモンの働きだけに左右されて行動しているわけではない。

 個々人のもつ人生観や倫理観とか、思想信条みたいなものがその人を強く左右している場合もあるわけです。以前にトンパ文字の詩を書いたときに「不倫」という概念がこの部族にはないのかもしれない、と記しました。社会・文化的な要素も、恋愛や結婚に大きな影響を及ぼすはずだ。

 これは、文化人類学について、霊長類の研究がすなわち人間の行動の解明には結びつかない、という批判と相通じるものだろう。参考にはなるけれど、イコールではないよ、と。


 さて、くだんのNHKの放送は、例によって誤ったメッセージを世に蔓延する結果を招いているだろう。
 放送を見て私は、大変な取材力で興味を持って見たけれど、これは科学的な放送内容だとは決して言えないなと感じたわけです。つまり、データはデータとして厳然としてあるわけだけれど、それを「恋愛の賞味期限」だとするには、ある主観的な解釈が加わっているな、と思うからですね。
 
 見落としたかもしれませんが、ヘレン・E・フィッシャーの疫学調査については触れていなかったように思う。これは、統計学的なデータは科学的な照明として弱いだろうという判断があったからなのかもしれない。あるいは、それを提示して、脳科学の方により大きな比重を置いたのか、見落としなく視聴していたわけではないのですが...

 そして、「恋愛の賞味期限」という、注目を浴びるためのジャーナリスティックなタイトルが誤解され一人歩きして、女の賞味期間というとんでもない誤解として語られているという結果を招いている。
 これはなぜなのかといえば、視聴者たちあるいはその受け売りたちが、限定的な条件で起こる事柄を、その前提を考慮せずに盲目的に受け入れてしまうからだ。

 そのよい例として、福島第一原発の話を出したのですが、ネット上の情報を見てみると、じつにいい加減な記事ばかりであることがよくわかる。

 東京電力福島第一原子力発電所1号機原子炉格納容器への海水注入の件で、原発の再臨界の危険性を問われた原子力安全委員会の斑目春樹・委員長の発言、ということについて...

 ・上の最低限の名称をきちんと表記している記事はほとんどないのだ。
 ・海水注入について... すべて既知のこととして省略している。
 ・原子炉への海水注入について...原子炉に海水注入?
 ・斑目委員長は...どこの委員長なのか?そして、姓だけでなく名前は?

 科学的な認識にもとずく科学的な発言とは決して思えない大ざっぱな記事ばかり。
 一事が万事だと。
 恋愛の賞味期限という生物学的法則が、女の賞味期限などといる訳の分からないものに変質する過程こそ、庶民が常識だと思っている「科学信仰という迷信」の実体なのだ。

 さて、このような雑音に近い言辞を払い去ってから、ポラニーの提起した「暗黙の知」について語りたいと思う。ただし、本を読み終えるのはいつになるのやら... ε- (^、^; ふぅー 

トラックバック(0)

トラックバックURL: http://mediaxross.net/xnt/xzx/mt-tb.cgi/98

コメントする

この記事について

このページは、小林由典が2011年6月14日 10:03に書いた記事です。

ひとつ前の記事は「安東次男「現代詩の展開」をめぐって」です。

次の記事は「マイケル・ポランニー「暗黙知の次元」(1)」です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。

カテゴリ別記事一覧

アーカイブ

OpenID対応しています OpenIDについて