安東次男「現代詩の展開」をめぐって

自然主義文学という名の日本的私小説の流行について、安藤次男を引用したい。 自然主義は本来自然科学的な精神と方法とによって人生を客観的に見ていこうというものであった、が...、

 ...科学という分析学で人間を捉えうるという科学信仰の問題を根底に持っている。

 「事兪々俗なれば文兪々俗、想兪々露骨なれば文兪々露骨なるはこれ自然の勢」、「弱点でも何でも忌憚なく暴露して来ると、それが一種の客観性をおびてくる」といった花袋流の「芸術と実行」観が日本的自然主義を導いていった。

 人は皆同じだということではなく、人間性の本質にかかわる部分はさほど違いがない、ということになろうか。その部分は誰でも似たり寄ったりで「周知のこと」なのだから、あえて露出させる意味もないことだろう。
 しかし、それまでの文学は人間の苦悩や怒りなどをいっさい取り扱わない明星派的浪漫主義が隆盛であり、それに対する反措定として出てきたという事情がある。

 けれども反動が過ぎて醜悪な事がらを好んで取り扱うようになり、絶望・倦怠・ニヒリズム・愛欲などの露悪趣味になるという落とし穴に陥っていくわけだね。

 このような自然主義という小児病が文壇を席巻し、近代詩もまたその濁流に押し流されていったといってよい。

 安東次男 『現代詩の展開』から、引用しておこう。

 日本の近代詩が、文学的業績として一応の評価を受けたのは、たかだか上田敏の『海潮音』(明治38年)、薄田泣菫の『白羊宮』(明治39年)、伊良子清白の『孔雀船』(同39年)、蒲原有明の『有明集』(同41年)までのことであろうが、それとてもかれらの仕事の意図するところが果たしてどの程度まで当時の文壇なり文学愛好者に受け入れられたかという点になると、はなはだ心許ない。
 当時の文壇にとっては、これらの日本近代詩の黄金時代をきづいた詩的業績が、藤村の『若菜集』(明治30年)と本質的になにほどもかわっていないと見えた、というのが実情でもあったろう。ましていわんや、泣菫のもつ高踏的詩風と有明のもつ象徴的詩風、さらに清白の浪漫的詩風を区別して、それぞれの赴くところを見きわめようとした者など、ごく一部の詩神に魅入られた者を除いてはいなかった、といってもよいのではないか。

 同様のことは、上田敏の『海潮音』の訳詞についても当てはまることであり、かれらは敏が、ルコント・ド・リエールやエレディヤからマラルメにいたるまで、その間ユゴーやボードレールやヴェルレーヌやヴェルアーランの異才も含んで、それぞれの詩人の拠って立つところを伝え分けようとした苦心の意図など、ほとんど一顧も払わなかった。
 敏が『海潮音』の序のなかで、「坦々たる古道の尽くるあたり、荊棘路を塞ぎたる原野に対て、之が開拓を勤むる勇猛の徒を貶す者は怯に非ずむば惰なり」と、「徒に晦渋と奇怪とを以て」攻撃する徒を激しい口吻でなじったのはこの間の事情をかなりよく物語っている。

 読んでいて暗然とならざるをえない。事情は今日でも、少しも変わってはいない。
 文学的にはすでに終わっている人たちが、
 自分たちに理解のできない新しい潮流を徒花だと批判し、
 過去という地層の地面から手を伸ばして、揚げ足取りに興じる毎度お馴染みの風景。

 花袋が『蒲団』を発表した明治40年、上田敏はヨーロッパへ旅立っていく。
 敏の西洋詩への理解は自然主義の文学者たちよりもはるかに深く進んでいたが、花袋たちにとってはほとんど働きかけるところがなかったという。

 こうして、ヨーロッパの詩を吸収して先駆的な仕事をしていた詩人たちは、ひとしくその青年期を過ぎたか過ぎないうちに詩筆を折ってしまった。周囲の無理解と誹謗により折らされた、といったほうが適当であると安東はいう。

 とりわけ、花袋を中心とする竜土会にあって、蒲原有明は次第に孤立していった。

蒲原有明 上は「春鳥集」の表紙と、自序である。

 自然および人生への認識が深まって以前と異なってくれば、その詩的表現もまた新たな方式を要するのは必然だ。
 衣替えをするように古いものを捨てる。けれど、守旧的感情もあってアンビバレントな思いを味わうけれど、革新というものの勢いが急激なのは、このルーティンに就こうとする心を断ち切る思いがあふれ出るからだ。詩の音節、格調、レトリック、造語など、新しい表現を追い求めると同時に、日本語の限界を押し広げて、今日的なものを表現したいという思いはとどまるところを知らない。それゆえに、晦渋だという非難を受けることも、甘んじて受けるところである。

日の落穂 

 高校の教科書に掲載されていたかと記憶している有明の代表作「日のおちぼ」は、『春鳥集』(明治38年)に収められている。上の紙袋のデザインは、青木繁と坂本繁二郎のコラボであり、挿絵「海の幸」は青木の絵が用いられている。

 花袋たちにもなんとかついて行けるのはこの辺までであったろう。けれども、...
 『有明集』(明治41年)で開花する象徴的表現は、もはや彼らの文学観ではついて行くこともおぼつかなくなっていたようだ。

 「智慧の相者は、我を見て」


蒲原有明知恵の相者
 4・4・3・3の14行からなるソネット形式を、有明はイギリスの詩人ダンテ・ガブリエル・ロゼッティに学んでいる。ロゼッティをとおして有明はベルレーヌらフランス・サンボリズム(象徴主義)に足を踏み入れることになる。もちろんそこには上田敏の訳業が大きな役割を果たしていたことはいうまでもない。

 有明は内向的な性格で、思索者であったせいか、サンボリズムを観念的象徴として捉える上田敏と相通じるものがあったようだ。加えて、若い頃より仏教に心を引かれて、観音信仰を懐いていたことが、ボードレールの象徴詩に共鳴するところとなったといってよい。

 自然は神の宮にして、生ある柱
 時おりに 捉えがたなき言葉を洩らす。
 人、象徴の森を経て 此処を過ぎ行き、
 森、なつかしき眼相(まなざし)に 人を眺む。 (Correspondances)


 「智慧の相者は、我を見て」は有明の恋愛詩である。ここには明星派的浪漫主義は微塵も見られないだろう。
 恋愛に歓びだけではなく苦悩や悔恨そして心の痛みを感じ、その恋に溺れたなら不幸や災いに見舞われるだろうという予感を感じとる。我も見者も有明の心の現れであり、理性と感情、霊性と肉体あるいは即自的な自己と対自的な自己という対立関係を表している。

 叙情詩が詩作の深みや知的な美しさを帯びて登場するのはおそらく有明あたりからなのだと、国文学者の三浦仁は『近代詩物語』に書いている。

 当時の文壇にとって、詩とは一種の青春の発情であり、そこにある擬浪漫的雰囲気の、印象派風の(ということはこのばあい自然主義風のということであるが)色彩の開放感を堪能すればそれでことたりたのである。(『現代詩の展開』)


 安東次男の論はまだまだ続くのだが、此処まで紹介すれば私の目的はすでに達せられたといってよいだろう。
 上に上げた事情は今日でも相変わらずな、「ここにも永遠があると」と嘆息すべき「いつか来た道」の風景なのだ、と。

 絵といえば印象派、詩といえば日本的自然主義あるいは「四季」派の詩という大衆文化のレベルは、このさきも上昇することなどないのかと思われる。


 音楽でも、絵画でも大衆芸能レベルの世界から、プロフェッショナルな芸術の世界そして、孤高の芸術家にならざるを得なかった先駆的な表現者もいる、ということだね。
 詩もまた、同じ状況にあると。

 その辺を見分けないと、「いつか来た道」で不毛な論議に時間を費やしてしまうことになる、と自戒しなければならないな。

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このページは、小林由典が2011年6月11日 21:56に書いた記事です。

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