修辞的な現在...表現と批評の方法をめぐって(2)

自らの日常生活と詩との関係をどう見るのかによって、詩は二つの分かれ道にさしかかる。大衆意識の内側にとどまるのか、大衆意識の外側で言語表現の可能性を追求するか...。

 詩で描写された日常生活=作者の私的生活であると考えることは、ありがちな誤解なのだろう。

 天沢退二郎は、ごくありきたりの人間である自分の私生活に興味を持つ人間などいやしないと思うので、そういうことは問題にもならない、とにべもなくはねつける。

 ネットで仕事をしている私は、言葉の検索で名もなきブロガーたちのブログを見ることがあり、天沢の発言に共感を覚えるわけです。
 「わたし、悩んでるのよねェー」などというつぶやきなど、有名アイドルとかが書けば反響がありますけれど、どこの誰ともしれない人が発信しても、誰にも届くことなく宇宙の彼方まで素通りしていくのではないかと思う。ツイッターやFacebook あるいはLINE を利用しても、事態は変わらないだろう。 

 これが活字の場合ならば、書店販売は売上冊数だけであるし、個人出版であれば配布先の数だけということで確定できる。


 詩の読者は詩を書く人でもあることがほとんどですから、
 どうしても詩の技術的面に意識が向かいがちであり、
 付き合いのない人の私生活などに興味を持つことはほとんどない
 ...といってよいでしょう。

 それが特段に優れた詩を書いている人ならば、どういう経歴の人だろうとか興味を持つことはあるかもしれない。そういうことがなければ、生活そのものが均質化してしまった現代においては、私生活はだれも似たり寄ったりだと思っているだけではないだろうか。

 それでも、女性の場合は女性週刊誌的興味が、男性よりもあるのかもしれませんけど...。

 それで生活詩派の皆さんからは、日常生活が少しも見えてこないとか、私自身の感情や生の声が聞かれないとか、生活綴り方のような批評が投げかけられてくるのが実にうっとうしく感じる。
 とうの昔に廃れてしまった前時代的詩の規範なるものを信奉する、教条主義的匂いがするのだ。

 優れた詩人は時代的な感覚を鋭く察知する感受性を持っている、と何度か書きました。
 それで、いま「修辞的な現在」に戻ろうとして、『戦後詩史論』を開いてみると、その前の章である「戦後詩の体験」の頁が表れ、...

 「同時代における、つまり現在に存在するということ、生き、精一杯存在することにおいて
 当然感じなければならない多くの問題を、じぶんの一身にひきうけている詩人を想定してみる。
 そういう詩人が精一杯感じているもの......、
 それは当然現在の多くの人々が、無意識に感じているものを先鋭な形で象徴している

 そういう詩人たちの存在は......、
 同時期の多くの人々に受け入れられるとか、多くの人々に流布されるということにはならない。
 これは問題意識の先鋭さにかかわるとおもう。(中略)
 どんな詩人も大なり小なり(平穏無事な人生という)そこから逸(そ)れ、
 詩において永続的なものを犠牲にして現在的なものに固執せざるをえない
 これが詩を書く行為の中に当然不可避的に起こってくる問題であろう」

  (横書き表示用に、改行を加えさせていただきました)

 確かに「不易と流行」ということにかかわってきますが、不易を尊び流行を軽んじるという論旨は誤っているのだね。
 そもそも、芭蕉は片手落ちではならぬと論じているわけであるし、流行という言葉も当代のブーム的な軽薄な意味あいを持ってはいないことを指摘しておきたい。

 そして、なぜ「流行」という現象が起こるのか?という根源的な考察がそこになければ、良いも悪いも判定できないはずだ。
 60年代詩人たちがなぜもあれほど饒舌だったのかということは以前に考察したはずだけれど、
 まさに吉本が鮮やかに言い表した時代的感受の問題がそこにあったからだということだ。

 いみじくも開高健は『饒舌の思想』という本の中で、小田実を評して「トマス・ウルフの熱い饒舌、多様性の氾濫、あらゆる濫費を惜しまない放浪に魅せられたのが彼の栄光ある不幸のはじまりでもあった」と述べている。

 まさに、あの時代、私は小田実と開高健の著書を読みまくっていたのだった。

 さて、先の言葉に続いて、清岡と吉岡の表現が論じられていく。

 シュルレアリスムの影響を受けた二人の生活観(感ではない)は、
 修辞的な日常性の描写を嫌悪するアンドレ・ブルトンのそれとははっきりと異なっているという。

 そういったものはこれらの詩人たちにはほとんどない。
 むしろ現実的体験と修辞的な体験の現実性とを無関心の関係に隔てようとする意図があるようにおもわれる。
 生活の日常性に対する嫌悪のようなものは清岡卓行にも吉岡実にもない。
 ただ日常の体験に繋がってゆきそうな修辞的痕跡を避けて姿をくらまそうとする無意識の欲求はありそうにおもえる。
 また現実の体験の棘をむしろ棘としてとられないように修辞的におきかえる感性に動かされている。

 我が国の抒情詩のもっとも良質の部分を担ってきた、と表される清岡卓行の詩がなぜ優れているのか、根底にあるのは表現する主体のもつ批評性だ、と。

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このページは、小林由典が2011年5月24日 15:04に書いた記事です。

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