修辞的な現在...表現と批評の方法をめぐって(1)

ふと手にした吉本隆明『読書の方法』から、芋づる式に『戦後詩史論』、とりわけ第三章の「修辞的な現在」について、思想論と詩とを媒介する言語の問題について、偏りのない筋道を辿ってみたい。

 『読書の方法』に、『戦後詩史論』について簡単に述べているところがあります。

 編集者の聞き書きなのだろう、第三章の「修辞的な現在」について、「いつものように好きなものは好き、嫌いなものは嫌いといういつもの吉本節がみられず、歯切れが悪い」と話を切り出しています。

 前半の感想はわたしも同じだけれど、最後の結論は正反対ですね。
 私は「吉本が高く評価しているとは思えない、というより本来ばっさり切り捨てるであろうような詩、あるいは決して好まないであろう詩をもひとしなみに取り上げて、意味否定の(詩の)修辞的な意味を忍耐強く追求していることに、頭が下がる思いを感じたほどです。

 『戦後詩史論』は、現代詩に復帰しようとしていた私にはたいへん刺戟的なものだった。現在読み直しても、つよい刺戟を受ける。とくに「修辞的な現在」の方法論は、自分にはここまでできないという思いが起こるのをいかんともしがたい。

 まず『読書の方法』から、すこし引用してみたい。

 第一章は、ぼく(吉本)自身は、詩を論ずる場合に一番肝心な表現、ことばの問題が無視されているという点が不満なんです。
 少なくとも詩の評価というのは、この行(あるいは言葉)の次にどうしてこの行(言葉)がきたのかということを論じ、分析することができなければ、詩の評価は成り立たないだろうと、ぼくは思っているわけですから。(中略)

 『修辞的な現在』では、思想論と現在の詩の評価とを、とにかく言語というものを介して、融合させる視点はあるのかというモチーフで書いたんです。思想論と詩の表現とを、言葉を媒介にして一致させる試みですね。

 それはある視点からのみ可能なんですが、その視点がちょっとでも狂えば、たぶんそれは詩を手段にした一種の思想論になってしまう。
 そうなると思想論をモチーフとして、詩をぶったぎってきりさくだけになっていきます。
 また、違う方向に視点が少しずれてしまうと、それは典型的な詩を幾つか並べて、いわばそれを解説するような、そういうものになってしまうと思うんです。

 そのいずれでもない一つの視点が見つけられれば、この論は成り立つと思ったんです。

 以上のような問題意識は、吉本が「詩と思想の自立」頃から、ずっと持ち続けてきたモチーフだといってよい。

 私がこの吉本の話に感じ入ったのは、実は同じことを「飽浦敏『ユネンティダ』の価値」として試みていたからなのです。

 私がこの詩人の詩を評価するのは、
 ・オボツカグラとして表象される琉球王朝の権威を裏打ちするものとして纏められた『おもろさうし』(うむるさうし)を素材に、それを脱構築していること。
 ・その脱構築の基本姿勢はオボツカグラの構造の外側で、農民と官吏たる私との対比の中で行われていること。
 ...ということにあるわけです。

 ただし、作者自身は思想家であるよりは、はるかに詩人であるようで、思想的な意識が詩の隅々まで貫徹しているとは思えない不都合な真実が見え隠れする、と。
 けれども、堀川正美が「時代は詩人の感性に運命を与える」と書いたように、優れた詩人が身に纏う鋭い時代感覚に窯変した思想性とでも言うべきものを、『ユネンティダ』は帯びている、ということがあの詩を取り上げた理由なのです。

 そのような経緯がありましたから、吉本の話に私はインタビュアーとは正反対の感想を持ったわけです。

 現代画家であるパゼーヌは、最初の一筆から始まって、二筆目からはキャンバスと画家との綱引きだと喝破しましたけれど、詩の場合〈 ことばの表の意味/裏の意味 〉がつきまとう。
 私は、将棋や囲碁の棋士が一局すべての手を再現できるように、詩人も自分の詩についてすべての言葉を説明できるものだと考えています。さらに言えば、説明できなければいけないのではないか?とさえ、考えてみたりする...

 なぜならば、詩が作品として成立するためには発語者としてだけでなく、推敲する批評者ともならなければいけないからだ。そうでなければ、詩が作品として自立するはずもないだろう。

 なかなか自分の詩は客観的には読みにくいものだけれど、少なくとも内的意識の連続性は保持されているはず。
 思考は連想の連続だというが、その連想はどこから来るのかといえば、ときに潜在意識の向こうに潜んでいて自分でも理由が分からない、ということはある。ありうる。

 読みかけの『読書の方法』を閉じて、「修辞的な現在」を再読すると、次のようなひと言に出会った。

 表現は強いて造りだそうとせず、見つけ出されるまでまつのだというのは修辞的な詭弁で、どう考えようと〈 書く 〉という体験ではじめて言葉は人間にとって自由なものでないことを実感することに変わりはない。 (中略)

 このようにして、まず意味の脈絡を変更することによって言葉の規範に異をたてようとする。そして異議はやがて規範の拡大につながることは予め詩の与件となっている。

 前半部は、言葉が意識に上がってくることと、それを表現として定着させることは別であり、書くという行為については決して無自覚なものではなく、呻吟して産み出すものだ、ということを言っているわけです。

 ちなみに、吉岡実は若いときに、リルケの『ロダン』中にある言葉......
 「詩を書くときはつとめて、職人が器物をつくるように、
 <霊感に頼ることなく>、手仕事を続けてきた」...と語っている。

 何度も言うように、話者と作者は決して同一ではない。
 吉本の言う「書くこと」の問題が除外されているのではないか、ということです。

 引用が切れ切れになって分かりにくいので、まとめて画像にしました。
 (クリックすると別ウインドーで表示されますので、参照してください)

修辞的現在

 私は大岡信の言葉を瞬時に思い出していた。
 「現代のわれわれの中にも短歌的な意味での「もののあわれ」とか、そういう説明しにくいものがあって、それがわれわれの詩を内部で腐食させるというか、そういう危険性がある」

 いわくいいがたい日本的ポエジーというものを批判的に対象化することなしに許容していくかぎり、詩が内部から腐食していく、と。
 『宴と孤心』や『詩の言葉』など古典を研究してきた大岡の指摘は、さりげないけれど鋭く見抜いていると思う。

 詩の中の」わたし」という発話者と、詩の作者とは別人格なのだ。
 入沢康夫の『詩の構造に関する覚え書き』以来、近代的批評意識が欠如した詩というのは姿を消しているはずだと思っているのだけれど......。
 それ以前に、世阿弥の『風姿花伝』で述べられた「離見の見」という考え方は、演ずる自分を対象化している(観客の)眼ということで、言語表現にもあてはまる、とひとこと言えばすむと思える。

 さて吉本の引用に話を戻そう。
 ここで私がご紹介したいのは、後半の「意味に対する異議」という部分。
 じつは、この引用には前提となる問いかけがあります。
 「修辞的な現在」の冒頭、西脇順三郎のシュルレアリスムについて触れた後、それに連なる清岡卓行の詩を取り上げて、述べる...

 詩の修辞的な可能性をもっとも極度にまで拡大してみたい欲望がゆきつくとすればどこだろうか。この欲望は修辞的な自然あるいは修辞的な宇宙を獲得しようとする無意識な欲求に根ざしている。
 ことばが規範の上にしか成り立たないことがあたえる拘束感は、社会が自然の上に成り立っていることにくらべてはるかに重苦しいものだ。

 上の文章に続いて、先に引用した言葉が続いています。
 この前後は抽象的な言い回しになっていますけれど、要するに、

 「言葉の(辞書的な)意味とは歴史的な経験の集積としてあり、それが日常性や散文脈での規範として(言葉の芸術である)詩の表現を拘束してきた。
 それが伝統的詩歌の基本的な限界性であり、我が国の現代詩は薄田泣菫や蒲原有明以降、そのようなデノテーションの規範を打ち破る形でその眼界をあたうる限り拡大してきた」...と。

 大岡信は、そのようないわゆる難解な詩の方が現代詩の本流なのだということを、じつに控えめに書いています。

 ですから、意味という規範の脈絡を変更し、(それによって)言語規範に異を唱え、(そうすることが)やがて規範の拡大につながる、ということは現代詩にとって大前提となっている、と。

 未知の領域に突き進め、と私がいうのは上記に述べられたことと基本的に同様だといってよい。

 けれども私の周囲の詩作者のみなさんは言葉の辞書的な意味をそのまま受け入れて、異を唱えるということは考えが及ばないかのようです。吉本が言うように、言葉はただ選ぶことにしか意味がないかのごとく受け取って、いかにセンスの良さを見せるかということに熱心になっているようだ。

 そのような前時代的詩歌観では、とても堀川正美のような詩は理解できないだろう。
 先の引用のあとで、吉本は清岡の別の詩を引用している。私の好きな「子守歌のための太鼓」である。

 子守歌のための太鼓

 そして皮膚の裏側のような界面のうえに かれは
 かれの死後に流れるであろう音楽をきく

 不可能を実現しているというのは、このような表現をさすわけでですね。

 (35年前に読んで好きになったこの詩ですが、35年たった現在でもこのような表現を分からないと一向に理解しない人たちが大半だというのが現状なのですね)

 「ただ深層からする言葉の解放と意識の持続であることだけ信じて不定の表出にかける」
 ...というのは、シュルレアリスムの試みについて述べているわけですが、「解放」を<分析>と言い換えるなら、精神分析の手法で無意識世界を言語に定着しようとする天沢退二郎などの試みもまた、同じ方向性をもった言語の拡大であるといってよい。

     「修辞的な現在...表現と批評の方法をめぐって(2)」につづく

     

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このページは、小林由典が2011年5月21日 23:55に書いた記事です。

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