現代詩人の言葉

「新体詩運動の発生以後、近代詩から現代詩さらに戦後詩へと詩の質的転換をうながして来たものは、詩的精神の自由と深化を求め、無限の可能性に挑みつづけてきた詩的情熱にほかならない。」

 ......『近代詩物語』(はしがき)より。

 旧来のものに飽き足らないという感覚が、変革の根底にある情熱なのだね。

 私が歴史的現代詩と言っているのは、ほぼ昭和という時代と前後してスタートし、終わっている詩を意味する。
 
 戦後に書かれた荒地派その他の詩もまた現代詩ですけれど、それらは戦後詩という特別なタームでくくられており、それは1970年代まで続きます。
 私は過去の現代詩あるいは歴史的現代詩と現在の現代詩という言い方をしていますけれど、
 戦後詩が通過してきた諸問題とはほとんど無関係に現在も書かれている現代詩という世界がある
 ...ことを、知ることになったわけです。

 具体的な例ですが...
 ラジオで、詩を書いているというリスナーがアナウンサーからどんな詩を書いているのか尋ねられ、
「男性版金子みすゞを目指して頑張ります」と答えていました。

 芸能界などではニューハーフ系が活躍しているのですから性差は問わないですけれど、時代が違うよ、ということはあるだろう。
 金子みすゞは、1903年(明治36年)4月11日 生まれ。
 没年 1930年(昭和5年)3月10日。100年以上も昔の人です。

 読み上げられた詩は、当然昭和以前の明治・大正的な七五調のことば使い、
 その時代的感受性まで受け継いでいるようでした。
 ああ、勘違いというほかない。公共広告機構のCMを見て、これくらい自分でも書ける、と。


 この手の詩は、現代語で書かれた過去の詩、若い詩人たちの言葉で言うと「終わっている詩」
...ということになろう。明治という時代を前提として金子みすゞを読むのとは意味が違う。

 たとえば、
 男性詩ならば『徒然草』や『方丈記』の世界から一歩も踏み出してはいない内容だったり、
 女性詩でいえば『蜻蛉日記』とか『和泉式部日記』とかの才女・天才の作品に吸収されてしまうだろうという古い感受性の、〈 永遠 〉を見いだすわけです。新しくとも「四季」派どまり、だね。

 けれども、さすがに現代詩手帖などに見られる女性詩人はそういうことがないですね。

 それでなかったら、古典の優雅さや流れるような日本語のリズムを堪能していた方がよっぽどマシ、ということになるでしょう。

 あるいは、大人になりきれない文学老年の詩などより、『徒然草』の大人(たいじん)たる世界を逍遙した方がよい。

 私自身は荒地派の詩から出発して、60年代詩人たちに傾倒していった。
 どちらにも愛惜があり、アンビバレントな気持ちを懐きながら詩から離れていった経緯がある。
 ですから、どうしてもそこからしか再出発はできない。

 それで、天沢退二郎や鈴木志郎康などを本歌取りのようにして連帯の意志を表した過去の自分の詩を発表したり、批評の中で吉本隆明や谷川俊太郎、あるいは長谷川龍生や大岡信などの言葉を引用したりしがちです。

 けれども、詩の先生はそういう人たちを「ビッグネーム」と呼んで、

 「詩壇の公器である現代詩手帖は、特定の偏った詩人の詩しか取り上げないのはけしからん、と言うおおかたの声があるのだ。けれど、現代詩手帖は別に詩壇の公器でも何でもない一商業詩誌に過ぎないのだから、けしからんというのも大人げない云々

 ...という趣旨の話をされました。
 人口の数でいえば、自分たちこそマジョリティー(多数派)であり、
 現代詩手帖やユリイカに登場している詩人たちはマイノリティー(少数派)ではないか、
 ...という主張なのだと考えてよいかと思います。

 現代詩を、ポピュラーソングのような基準で評価すべきだと言うのだろうか?

 詩の読者は、詩を書く人でもある、という現代詩の特殊な事情からすると、
 現代詩文庫などに納まっている詩人の数よりも素人詩人の方が圧倒的に多い、とは言える。
 しかし
 マジョリティーであることは、メジャーであることを意味しない。
 マイノリティーであることは、マイナーであることを意味しない。

 一冊の詩集の読者数を考えてみれば、容易に分かるだろう。
 たとえば、ブックオフの文芸コーナーに置かれている無名の人たちの詩集を買う人はほとんどいない。
 読者と言えるのは、それを書いたご本人だけだろう。あとは、寄贈された本を義理で読む人ばかり。

 けれども、プロフェッショナルな詩人たちの詩集であれば、数千円出しても買う人たちがいる。

 マジョリティーなのだから、自分たちこそメジャーなのだ、という考え方は逆立ちした理屈ですね。

 世の中にはパレートの法則という社会科学的法則があります。
 これは経済学者であるパレート(Vilfredo Pareto)が見いだした統計学による社会経済法則で、社会全体の富の80%は20%の人間に集中しているというのが原点ですね。

 このパレートの法則は、今日では2・8(にっぱち)の法則とか、20/80の法則とか呼ばれて、いろいろな方面で適用されています。ビジネスでは、二割の人間の生産性は全体の八割を占めるとか...。

 詩の話に戻りましょう...

 長谷川龍生は「メジャーはマイナーを含むが、マイナーはメジャーを含むことはない」ということを古い『現代詩手帖』に書いております。
 決して両者の二項対立の図式ではないですね。

 谷川俊太郎の詩は、こども向けのことば遊びの詩や童謡の類から、青春の詩、生活詩、思想的な詩、深層心理を追求した詩、インターネット的フロー言語の詩など、どんどんポジショニングを変えていきます。

 長谷川龍生は「十年一日のごとく、同じ調子の作品を飽きもせず作っている人がいる。
 才能というのは、一つのところにとどまっているものではない。」と、さきの文章の中で喝を入れています。

 周囲には谷川俊太郎を学ぶ人がたくさんいますけれど、何冊か「身辺のことを取り上げた詩」を、深く理解もせず愛読している、という状態なのだと言ってよい。

 私はあまり谷川の熱心な読者ではありませんけれど、20冊以上の主要な本は目を通しております。
 西洋美術などではメソポタミアから古代ギリシャ、ローマそして歴史をたどって現代彫刻や美術が周囲にあるので、否応なしにそれらを学んでから自分の出発がある、という考えが徹底しています。
 パゼーヌは「50年間は苦しいのだ」と言ってますけれど、それだけの勉強期間が必要だよ、ということですね。

 これは、詩だって同じ事です。伝統というのはそういうものですから。
 けれども、絵画でも詩でも、伝統を少しも勉強していない素人がほとんどで、勉強していることを冷やかしたりくさしたりする風潮すらあるのですね。

 それで、十年一日どころか、百年まえの詩をまねる知的浦島太郎症候群が蔓延することになる。


 かなり断定的な言い方をしてしまいましたけれど、次のようなことばは誰の発言か?をテストしてみれば、「ええ、こんなことを言っているの?!」という感じで、驚かれることが多々あるかと思う。



 以下10の短文は現代詩人のことばを抜粋したもの。[         ] 内に発言者名を埋めて下さい

 詩人名(あいうえ順) 安東次男 大岡 信 鈴木志郎康 谷川俊太郎 野村喜和夫 長谷川龍生



(1) [           ] 現手1982-10  ※現手=『現代詩手帖』

 以前は一行で世界を言い尽くすとか、そういうことがありうると思っていたけれど、
 それはたぶん俳句なんかの考え方の影響があったのだろう。
 けれどもだんだんそう思えなくなってきて、
 今はやっぱり自分の眼界まで饒舌にならざるを得ないみたいな考えになっているところがある。

(2) [           ] 現手1981-12

 目の前に置かれている茶碗一つについてでも、非常にすばらしい詩を書くことができる。
 ある時は、フィクションの世界を作り、その枠組みを利用して、
 現代文明の中に生きている人間の精神の問題を捉えようとすることもある。

 現代のわたしたちの中にも短歌的な意味での「もののあわれ」とか、
 そういう説明しにくいものがあって、それがわれわれの詩を内部で腐食させるというか、
 そういう危険性がある、ということを忘れてはならない。

(3) [           ] 現手1984-07

 方法によって現実の違う局面が見えてくる、そのための方法である、と考えている。
 日常生活の表面に現れない局面を言葉を使って表せるんじゃないかという意識を強く持っていた。
「サレテ・ムーシ地方紀行」この詩は、空観移動していくことによって、
 まったく主観的な思いを述べない詩を目指した。
 感じたことを書くのは嫌だなと思っていた。

(4) [           ] ユリイカ1975-05 

 表現は多様でありうるというのは、嘘である。
 一つの対象に接触する精神の状態を、
 詩として書けばこうなり、
 三十一文字に詠えば、あるいは句に仕立てればこうなるというのは、
 ...尤もらしい嘘であろう。
 
ほんとうは、
 句にしかなりえぬもの、歌にしかなりえぬもの、詩にしかなりえぬものがあるだけなのだ。
 対象との最初の出会いを大事に取れば、出会いとはそういうものだ。
 私たちは各人を動かすべきものに動かされなくてはならない

(5) [           ] 現手1981-12

 一つの入り口と、一つの出口、そして一本のトンネルだけでは、人気のない公園のようなもの。
 詩は入り口も、出口も、トンネルも、数多くあるほうがいい
 つまり一つのテーマから、大迷路をつくりあげていくのです。

(6) [           ] 現手1982-10

 日本人は自分の中に悲しみと呼ぶのがいちばん適切な感情があったときに、
 それは素直に「悲しみ」っていえばいいと思っている
 むしろ「悲しみ」以外の言葉で言ったら、それは悲しみでなくなる、と思っているのではないか。
 西欧人たちは「悲しみ」という感情があったら、徹底的にそれを細かく書こうとするのではないか。

     ぼくは悲しいと書いたとしても
     その時ぼくが悲しかったわけではないことを
     僕は知っている

(7) [           ] 現手1981-12

 詩を書くときは、いつも一つ一つ何か変わって行っているという感じがする
 一つの詩を書いて、次に書く時は、素材とすることも書き方も含めて変わっている。
 変わり具合が自分の目に見えないのに、変わっていっているという実感を持たざるを得なくなっている。
 自分にとって、実感を持てる言葉というのがなくては、詩というのは始まらないのではないだろうか。

(8) [           ] 国文学1995-11

 思いついた一つの言葉から始めて一篇の詩が作れるということは信じている。現実の人間とはあまり関係のないところで、言葉だけでどんな世界でも紡ぎ出せるという、詩には確かにそういう一面がある。

(9) [           ] 2004-6
 
 「太陽も海も信ずるに足りない」(鮎川信夫)...これを詩学的側面からいえば、
 戦前の四季派にみられたような自然詠唱的スタンスはもっとも斥けられなければならない
 それから太陽や海をシンボル化して純粋詩の空間に仕立てるというような方法もいらない

(10)[           ] 国文学1995-11

 詩というのは削ぎ落とし削ぎ落とした言葉の結晶みたいなものが力を持つんだと思っていたが、
 今はそういう言葉は成立しないだろうと思う
 現実のより不安定な流れに沿ってゆく言葉の方がまだ力があると、割り切って言えばそう言える。
 詩はいろんなノイズが入ってくればくるほどいいと思っている。



 <目から鱗>体験をして下さいな ε- (^、^; ふぅー 

トラックバック(0)

トラックバックURL: http://mediaxross.net/xnt/xzx/mt-tb.cgi/96

コメントする

この記事について

このページは、小林由典が2011年5月18日 23:23に書いた記事です。

ひとつ前の記事は「田村隆一 ぼくの鎌倉百景 「野原の中には」」です。

次の記事は「修辞的な現在...表現と批評の方法をめぐって(1)」です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。

カテゴリ別記事一覧

アーカイブ

OpenID対応しています OpenIDについて