現代詩人のことば・出典解説(2)

前回は変な切り分けをしてしまいました。過去に読んだものの出典を探すのは、本探しになるため手間がかかります。今回は(6) (8) [ 谷川俊太郎 ]と、(7) [ 鈴木志郎康をとりあげたい。

(6) [ 谷川俊太郎 ] 現代詩手帖(1982-10)

 日本人は自分の中に悲しみと呼ぶのがいちばん適切な感情があったときに、それは素直に「悲しみ」っていえばいいと思っている。むしろ「悲しみ」以外の言葉で言ったら、それは悲しみでなくなる、と思っているのではないか。
 西欧の人たちは「悲しみ」という感情があったら、徹底的にそれを細かく書こうとするのではないか。

     ぼくは悲しいと書いたとしても
     その時ぼくが悲しかったわけではないことを
     僕は知っている

 谷川俊太郎は素直で分かりやすい、と思っている読者は少なくないだろう。

 確かに、表面的には難解な思想を露わにしたりすることもあまりないけれど、方法論的には谷川は自己をそれと分からないように分離していることをわかっている人は多くない。

 谷川を模範としている詩作者でも、即自的なつまり話者と作者がイコールであるような詩を書いているのを見ると、谷川の何を模範にしているのか?と尋ねてみたくなるな。

 谷川は立花隆との対談で、T.S.エリオットに触れ、

 「エリオットは、詩を書く人間の現実生活あるいは人となりみたいなものと実際の詩作品は切り離すべきだとずっと言っていた人である...」云々、

 「そういう気持ちと、やっぱり詩というのはどうもそういうものじゃないんじゃないか、詩を書く主体、詩人のパーソナリティというものと絶対に結びついているんじゃないかという気持ちの二つがあって、その間を僕は揺れながら書いてきた」と、語っています。

 メジャーですから、マイナーも含んでいて当然かな。

 作者と話者とは別物というのは意識的な方法論としてあるけれど、潜在意識(無意識)の部分ではパーソナリティと切っても切れない関係にあるわけですね。これも二項対立の話にはならない。

 ユングを研究して以来、そういう世界に眼を見開かれたのでしょう。

  
(7) [ 鈴木志郎康 ] 現手(1981-12)

 詩を書くときは、いつも一つ一つ何か変わって行っているという感じがする。
 一つの詩を書いて、次に書く時は、素材とすることも書き方も含めて変わっている。
 変わり具合が自分の目に見えないのに、変わっていっているという実感を持たざるを得なくなっている。
 自分にとって、実感を持てる言葉というのがなくては、詩というのは始まらないのではないだろうか。

 優れた詩人というのはこのような感覚をもっているのだろう。いや、そういう感覚をもっているから、優れた詩人となりえている、というべきか。

 手慣れた職人仕事のような詩を自分のスタイルとして確立した(?)かのように思い違いをしている詩作者は、終わった人なのだと分類しておけばそれで済む話、ということだね。


(8) [ 谷川俊太郎 ] 国文学(1995-11)

 思いついた一つの言葉から始めて一篇の詩が作れるということは信じている。現実の人間とはあまり関係のないところで、言葉だけでどんな世界でも紡ぎ出せるという、詩には確かにそういう一面がある。


 「しかし今は自分の現実から言葉が浮かび上がってくるのを待つ方が、自分にとってはいいとおもっている。ただその自分が生きている現実が、どんどん見えにくくなってきているというか、希薄になってきているというか、それが今の時代の一番の問題でしょう。」

 ...と続いていく。

 渡辺武信の分類でいえば、一つの言葉から一篇の詩を作り上げるタイプと、最初から終わりにむかって書き上げるタイプがあるという。
 前者であっても、その言葉は自分の現実の深いところから浮かび上がってきたものかもしれない。

 谷川がここで言っているのは、そういうタイプのことではなく、言葉の芸術としての純粋詩やことば遊び、あるいはソシュール言語学を踏まえたシニフィアンが自走するような詩について、語っているわけです。

 一群の若手の詩人たちが戦後のもっとも評価すべき詩人として吉岡実を再評価して、それに連なる詩的流れを形成しているようですが、谷川俊太郎は豊穣な無意識世界を言語に定着することに気持ちが向かっているというところでしょうか。

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 どうでしょうか?ちょっとした思いつきで、現代詩人の短文を抜き書きしてみましたが、この人がこんなことを言っているのかと驚かれたとしたら、勉強しなければイカンということになるかな。

 耳学問で先生の話を金科玉条のごとく思い込んでしまうと、自由な発想ができなくなるでしょう。多面的な物の見方ができなければ、詩を書くのに必要な「しなやかな感性」は培われません。

 くれぐれも視野狭窄に陥ることのないように、気をつけていきたく思うばかり......。

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このページは、小林由典が2011年5月28日 23:35に書いた記事です。

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