現代詩人のことば・出典解説(1)

前回の「現代詩人のことば」はググっても載っていない書籍からの出題でしたので、一応出典を解説しておくべきかと思います。」

 (1) 谷川俊太郎 (2) 大岡 信 (3)鈴木志郎康  (4)安東次男  (5) 長谷川龍生
 (6)谷川俊太郎  (7) 鈴木志郎康 (8)谷川俊太郎  (9) 野村喜和夫 (10)谷川俊太郎

(1) [ 谷川俊太郎 ] 『現代詩手帖』1982-10

 以前は一行で世界を言い尽くすとか、そういうことがありうると思っていたけれど、それはたぶん俳句なんかの考え方の影響があったのだろう。
 けれどもだんだんそう思えなくなってきて、今はやっぱり自分の眼界まで饒舌にならざるを得ないみたいな考えになっているところがある。

 言葉を削りに削って結晶のような詩を書くというのは、俳句の伝統がもたらした考え方なのだろう。さらにさかのぼって、簡潔な叙景詩といえば漢詩の影響を受けているといってよい。

 俳句は、和歌の詠唱を極限まで切り詰めていくことにより、やまと言葉の結晶的な芸術となったという歴史的経緯がある。
 けれども、現代詩は俳句とはまったく別の世界を表現するためのに伝統的詩歌観から分離していったわけです。

 大岡信は『詩の日本語』の中で、和歌が長大になった歴史的経緯について、(仏教という)思想が言語表現に表れるようになったからだということを述べています。

 つまり、七五調を重ねる和讃形式によって、それ以前の記紀歌謡から万葉長歌に至るまでの歴史の中でほとんど持つことのできなかった種類の思想性を露わに表現した詩句が、いともやすやすと飛躍的な量の増大とともに成し遂げられている、と。

 現代詩は俳句とは相反するベクトルをもって発展してきたという側面があります。

 現代詩はもちろん定型ではありませんから、俳句的な行を効果的に使う・配置するということはありますけれど、少なくとも必要最小限の要素に分解していくという方向性では、複雑で全世界的スケールをあらわにした現代社会を思想的にも感性的にも捉えていくことは不可能になっているはずだ。

 何が谷川をして自分の眼界まで饒舌にならざるを得ないと言わせるのか?
 それが(10)の言葉につらなっているわけですね。

  詩というのは削ぎ落とし削ぎ落とした言葉の結晶みたいなものが力を持つんだと思っていたが、今はそういう言葉は成立しないだろうと思う。現実のより不安定な流れに沿ってゆく言葉の方がまだ力があると、割り切って言えばそう言える。
 詩はいろんなノイズが入ってくればくるほどいいと思っている。

 ノイズといっているのは、散文から浸食を受ける部分、といってよい。モノフォニーではなくポリフォニー的であるのもまた、ノイズなのだ。

 今はそういう言葉は成立しないだろうと思う」

 ...これはすぐれた感受性が時代的な空気を読み込むことによって生じる窯変なのだと思う。
 谷川の言葉で言えば、「時代のテキストの中でことばが輝く」ということになる。
 凡庸な詩作者の場合、このようなセンサーがまったくといってよいほど欠落していて、個人的感情の吐露に終始するだけということになってしまうのでしょう。

 それでいて、饒舌だとか猥雑なのは詩としてダメだという単細胞思考の人たちは、優れた現代詩人たちが感じとっていることをまったく理解できないのだといってよい。

 (2) [ 大岡 信 ] 現代詩手帖(1981-12)

 目の前に置かれている茶碗一つについてでも、非常にすばらしい詩を書くことができる。ある時は、フィクションの世界を作り、その枠組みを利用して、現代文明の中に生きている人間の精神の問題を捉えようとすることもある。


 上の文章は要約なのですが、

 「この詩を書いたときには、目の前にあるものを書くというのとはだいぶ違っていました。
 これからうたおうとしていることは、眼前の事実であると同時に、永遠に関係ある問題でもある、というモチーフがあった」

 ...と続きます。

 複眼的な視線をもって重層的な表現がなされている、ということですね。二重あるいは三重の重層的な表現をすると、「余計な言葉が多くて、イメージが明確でない」と、単細胞的結晶信仰派の方は批判するかと思う。

 (3) [ 鈴木志郎康 ] 現手(1984-07)

 方法によって現実の違う局面が見えてくる、そのための方法である、と考えている。日常生活の表面に現れない局面をことばを使って表せるんじゃないかという意識を強く持っていた。
「サレテ・ムーシ地方紀行」この詩は、空観移動していくことによって、まったく主観的な思いを述べない詩を目指した。感じたことを書くのは嫌だなと思っていた。

 十年一日のごとく詩を書いている人に読んで頂きたいですね。

 方法意識が変われば、現実の見え方も違ってくる、と。
 極私的と自称する鈴木志郎康が、感じたことを書くのは嫌だなと思って書くというのは驚きかもしれません。テレサ・ムーシというのは、「無視されて」ということです。

(4) [ 安東次男 ] ユリイカ(1975-05) 

 表現は多様でありうるというのは、嘘である。
 一つの対象に接触する精神の状態を、詩として書けばこうなり、三十一文字に詠えば、あるいは句に仕立てればこうなるというのは、尤もらしい嘘であろう。
 ほんとうは、句にしかなりえぬもの、歌にしかなりえぬもの、詩にしかなりえぬものがあるだけなのだ。


 この安東次男の言葉は肝に銘じておくべきだろう。

(5) [ 長谷川龍生 ] 現手(1981-12)

 一つの入り口と、一つの出口、そして一本のトンネルだけでは、人気のない公園のようなもの。詩は入り口も、出口も、トンネルも、数多くあるほうがいい。
 つまり一つのテーマから、大迷路をつくりあげていくのです。


 これも要するに重層的な表現の方が豊かなんだ、という方法論ですね。

 人気のない公園というのは、言い得て妙です。
 入り口と出口があり、自由に線を引いたりする砂場があり、ルフラン(リフレイン)をするブランコがあり、老廃物を流すトイレが備わっている簡素な公園、という詩...。

 ことばの芸術ではなく、職人(アルチザン)のように手慣れた手法で自己模倣をくり返すのはなぜかというと、先生とか先達の方々に褒められてそれを打破できないからでしょうね。

 自分が納得できる理由でなく褒められたとしても、そんなものは無視すればいいと、私はとらわれません。

(9) [ 野村喜和夫 ] 2004-6
 
 「太陽も海も信ずるに足りない」(鮎川信夫)...これを詩学的側面からいえば、
 まず戦前の四季派にみられたような自然詠唱的スタンスはもっとも斥けられなければならない。それから、太陽や海をシンボル化して純粋詩の空間に仕立てるというような方法もいらない。

 この中では、もっとも現在的でラディカルな詩論を展開する野村喜和夫の方法論ですね。

 戦後詩が経てきたものを、知識としても経験としても通過してきていない伝統的詩歌観の皆様には受け入れ難いかもしれない。

 今の若い詩人たちは、荒川洋治であったり、野村であったり、稲川方人であったり、きわめて今日的な問題意識をもった詩人たちの詩や詩論を吸収して出発していますので、いわゆる既存のサークルに入っていっても受け入れられないだろう。

 とうの昔にケリがついているような方法論で批判されるのが関の山であり、反論するのも徒労であるし、芽むしり的言辞に抑圧されることになる。

 一流の人たちの書を読み、対話を試みる方がはるかに実りが多い。そういう志向の人たちと、自由闊達な論議ができるといいなと思うね。

 (6) (7) (8) については、次に続く

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このページは、小林由典が2011年5月27日 11:34に書いた記事です。

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