サティシュ・クマール......インド的思想をめぐって

サティシュ・クマールの『君あり、故に我あり』-依存の宣言-と、マイケル・ポラニー『暗黙知の次元』-言語から非言語へ-と、 二冊の本を読みはじめ、そうだよ!という共鳴を禁じ得ない。

 サティシュ・クマールはラジャスターン生まれのインド人エコロジストで、なんとジャイナ教の巡礼修行僧(サドゥー)だった人です。
 ローマクラブが提唱したあの、有名な「成長の限界」宣言を主導したイギリスの哲学者バートランド・ラッセルに触発されて、インド・ヨーロッパ・アメリカへと平和巡礼を行い、現在はイギリスで環境・精神・教育の分野で先覚的な活動を展開しているという。

 ジャイナ教は仏教とほぼ同じ頃に、マハヴィーラによって興された不殺生の厳しい戒律をもつ宗教です。
 修行者・信者が守るべき五誓戒 とは、
(1)生きものを傷つけないこと(アヒンサー)
(2)虚偽のことばを口にしないこと
(3)他人のものを取らないこと
(4)性的行為をいっさい行わないこと
(5)何ものも所有しないこと(無所有)

 ...とされる。

 仏教から見ると、六師外道のひとつとされるが、原始仏教と共通するところが少なくない。むしろ、仏陀の生きていた時代のマガダ国地方はジャイナ教的精神風土があり、そこから仏陀が生まれてきたという感じがする。

 20歳の頃、私が愛読していた『スッタニパータ』を参照してみたい。

第一/ 蛇の章 三、犀の角

35 いっさいの生き物に対して暴力を加えることなく、あらゆる生き物のいずれをも悩ますことなく、また子を欲するなかれ。況んや朋友をや。犀の角のようにただ独りあゆめ。

第二 小なる章 二、なまぐさ
239 稷(きび)、ディングラカ、チーナカ豆、野菜、球根、蔓の実を善き人々から正しいしかたで得て食べながら、欲を貪らず、偽りを語らない。

  
 ジャイナ教が、仏教から見て外道とされるのは、小乗的戒律が厳しすぎる点にあるのだろう。ベナレス(バラナシ)で見かけたジャイナ教徒は全裸でやせ細り、道ばたに腰を下ろす際に粗末な刷毛のようなもの(箒)で足元を掃いてから座るのだった。蟻ほどの小さな虫さえ誤って殺さないためだという。

 食べ物も厳格であり、上に掲げた食物でも、球根は命が宿っているものとして食さないほどだ。
 修行の高いステージにある者は断食をして、最終的には飢えて死ぬことを理想とする。

 (仏陀は苦行のための苦行の無意味さを悟り、快楽と苦行と両極端を厭い離れよ、と説く)

 確かにジャイナ教は極端なのだが、サティシュ・クマールはそのサドゥーであったということですね。
 彼は文字を持たない口承文化圏で生まれ育ちましたので、この書はイギリスで育った娘さんのマヤが口述筆記をしたものだという。冒頭部を引用してみたい。

 「自然は、最も偉大な教師なのよ」と家から我が家の農場へ歩いているとき、私の母はいった。
 「仏陀よりも偉大よ」と母は続けた。
 「だって、仏陀さえも自然から学んだのよ。木の下に座って、思いやりがあり寛大で恵み深い木々について思いをめぐらしているときに、仏陀は悟りを開いたの。
 仏陀は自分がその下に座っていた菩提樹を見上げながら、樹の充足感や自己実現は、ただ樹そのものであることで、決して一本の樹以外のものにはなろうとしなかったことにある、と悟ったのよ。菩提樹は自分のところへ来るものをいつも迎え入れるわ。鳥は巣を作れるし、動物は涼しい木陰で休めるし、みんなが木の実の恵みを受けることができるのよ」

 (中略)

 母は無学の女性で、読むことも書くこともできなかった。自分の名前すら書けなかったので、書類には拇印を押していた。しかし、母は信仰が厚く、直感的な哲学者でもあった。

 北インドのどこにでもあった農村風景と精神性が述べられています。
 この書は四部構成となっており、
 第二部はサティシュが接したインドの賢人ヴィノーバ・バーヴェやクリシュナムルティー、B.ラッセル、マーチン・ルーサー・キング、フリッツ・シューマッハとの対話。
 第三部はインド再訪の記録。
 第四部はデカルトに始まる二元論の世界観に対峙する「ソーハム(彼は我なり)」、つまりこの書の題名でもある『君あり、故に我あり』の思想について論究している。

 ...と、ここまで書いてきて私は毎度のことなのだが、不思議なシンクロニシティに驚かされるのだ。

 この文章を書くきっかけになったのは、以前に書いた田村隆一の「木が表象するもの」...を裏付けるものではないか、という考えからであった。

 田村隆一は東洋的無私の精神に傾いたのではないかという気がするのだが...。
 エゴがぶつかり合う個人主義の国アメリカと、エゴを捨てて無私から始まるインドの精神風土。
 この対極的なものを経験してみて、動的なものから静的なものへの加齢が始まったと思う。

 田村隆一の「木」は、まさにバニヤン(ベンガル菩提樹)の光景がふさわしいと思う。

 それ以上に私が驚いたのは、サティシュが唱えるサンスクリット語のマントラ「ソーハム」という言葉なのだね。

 先月、「森羅の散策 (2) 野の道」という詩をアップしましたが、この詩を書いたことが、「ソーハム」というマントラを呼び寄せた引力なのかと思える。

「君は我なり」の世界を歩んでいるということですけれども、「彼は我なり」というインド思想とどう響き合うのだろうか?

 手元には、読みかけのまま積ん読状態の『「分かりやすさ」の罠』(仲正昌樹)という二項対立についての新書がある。ソクラテスからデリダにいたるまでのアイロニー思考によって、不毛な二項対立思考に風穴をあけようとする試みだといってよい。

 こういう問題を何とかしていかねば、いつまでも「傷だらけの(永遠の)少年」のまま、ということになってしまうだろう。途切れている脈絡をつなぐ一行を書くために、思考を深めなければならない。
 腰を据えてやっていくほかないね。

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このページは、小林由典が2011年5月30日 22:28に書いた記事です。

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