秋山公哉「交河故城」、私の魂が還っていく場所とは

詩をいくら読み返しても、作者の強い思いの由来が理解しがたい作品だ。表現不足がある、といえるだろう。だとすれば、インタテクスチュアリテを突き止める方がよい、という場合もある。

 短い詩ですので、全文を記載させていただきます。

 交河故城

 地面を掘って造られた都市(まち)は
 すべて土に還ろうとしているというのに
 死者たちは今も生きているのだ
 魂は今も望楼に登り
 砂漠の向こうを見張っているのだ

 草も木も一切の生き物のいない都市
 何者かがいる
 そんな感覚に捉われ続けていた

 陽が暮れて
 引き上げようとして振り返ると
 昔建物であった土の塊が
 夕闇の中にいくつもそびえ
 望楼に立つ兵士のように
 じっとこちらを見つめていた

 漢や匈奴 強大な国家に囲まれた都市は
 廃墟となった今も
 生きる道を探しているというのか

 いつか私がこの世界に別れを告げる時
 私の魂が帰っていく場所は この望楼と
 この青黒い空の下で砂漠の彼方を見つめる
 仲間のところ以外にはない
 不意に夕闇の中から放たれた矢が
 私の背中を貫いた

 交河故城(こうがこじょう/ヤールホト)というのは、中国、新疆(しんきょう/シンジャン)ウイグル自治区吐魯番(トルファン)県にある、歴代王朝の西域統治の拠点となった都城です。

 勉強会では私が当てられてこの詩を朗読し、読み終えると即座に「どうですか?」と尋ねられました。
 音読をしている時は、誤読をしないようにとか、区切りを正確にとか読むことに注意を払っておりましたので、文脈をほとんどといってよいほど把握しておりません。

 あわてて斜め読みをして、日本軍として中国戦線に趣いた歴史的な場所を再訪したのでしょうか?
 ...と、まったく見当違いのことを言ってしまいました。

 作者の生年月日には一九五七年と記されており、戦争を知らない子どもたち世代だったのですね。

 なぜ私がそんな誤読をおかしたのかといえば、入会したばかりでセッションの進め方をよく知らず、この日はどの詩を取り上げるのか知らず、下読みをしていなかったということです。
 それでで、とっさには文脈を把握することすらできなかった、ということがひとつ。

 もう一つは、
         「私の魂が帰っていく場所は この望楼と
          この青黒い空の下で砂漠の彼方を見つめる
          仲間のところ以外にはない」

 という3行にたいへん深い思い入れを強く感じ、作者がかつて生死をさまよったかもしれない深い意味のある場所なのだろうな、と推察してしまったからですね。それほどの強い結びつきを感じている「仲間」とは、亡くなった戦友のような限界状況を共にしたような人たちなのかな、と。この詩からは、それ以上の理解の手がかりが見当たらない。

 それが間違いだと解り、それではどういうことなのだろうと判断停止することにしました。

 先生の見立ては「世間にはお城マニアみたいな人がいて、古い城ばかり見て歩いてると、そういう気持ちになるとがあるんだ」というものでした。

 私は旧車オタク(エンスー)ですから、鉄道マニアなどの気持ちは分からないではない。
 けれども、「私の魂が帰っていく場所」だというほどの思い入れは(精神的なゆとりをもつ)趣味人にはあり得ない気がして、納得はできなかったのですね。

 ところが翌朝、目ざめ間際にポプラ並木のトルファンの風景がふと脳裏に浮かんだのです。
 以前、シルクロードの写真集を編集した経験があり、その表紙の風景でした。真っ直ぐどこまでも伸びる舗装のない道路の両側は白樺のように幹の白いポプラが並び、人間やロバの荷車などが揺ったりと歩いている。空には雲ひとつなく、強い日差しが地上の陰影をくっきりと際立たせている。

 それで、突然この詩の意味が解ったのです。
(いつものパターンですけど、一眠りするとひらめきが...)

 「あっ!この人は仏教者(徒)なのではないか...」と。

 以前、インド哲学者の紀野一義先生の著書をまとめ読みしたことがあり、玄奘にまつわるエピソードを読んだ記憶がふと、よみがえったのです。。
 そこで、本棚をさがして『「般若心経」を読む』にその記述を見いだしたのですね。
 (部分的に省略あり)

高昌国の王?文泰(きくぶんたい)の使者が玄奘の来たことを知り、国王に報じた。高昌国王は直ちに使者を伊吾に送り、玄奘を高昌国に送るよう命令した。

 玄奘はこの高昌国でも下にもおかないような厚遇を受けた。
 王は自ら宮殿を出て玄奘を迎え、後院に入ってから、二階建ての楼閣の豪華な帳幕(とばり)の中に玄奘を座らせ、ていねいに拝問した。

 玄奘は高昌に十余日とどまった後出発しようとすると高昌王はそれを妨げた。玄奘に惚れこんだ高昌王は彼を国外に出したくなくなったのである。

 そこで玄奘は断食をもってこれに抗した。しまいには王もついに折れた。王は玄奘に、旅行用の服を作るから一ヶ月待って仁王経(にんのうきょう)の講義をしてくれること、帰還の時は三年とどまってくれることを条件に、西に行くことを承諾した。

 出発の日、王は諸僧、大臣、市民とともに見送り、城の西に進んだ。王は玄奘を抱いて慟哭し、道俗みな悲しみ、別離を悲しむ声は郊外一帯にひろがった。王は王妃や人民は城に帰らせ、自分は高僧たちと共に馬に乗ってさらに数十里も見送ってから城に帰った。

 当時、高昌国は西突厥(とっけつ)と結んで勢力きわめて強大であったが、玄奘が去ってのち貞観十四年(六四〇)に唐の大軍によって滅ぼされてしまった。

 この高昌国王の恭敬ぶりは常軌を逸していると思われるほど懇(ねんご)ろなものであった。
 日中共同取材によるNHKのテレビ番組『シルクロード』の放映中、交河故城(こうがこじょう)のシーンを見た時、私は名状しがたい感動におそわれた。そこは玄奘と高昌国王とが兄弟の盟約を結び、十数日をすごした王宮の跡だったのである。

交河故城

 詩の作者は故事の舞台となったこの地を訪れ、同じように名状しがたい感動を味わったのだろう。

 この青黒い空の下で砂漠の彼方を見つめる
 仲間

 とは、つまり約束した玄奘の帰還を待ちわびる(仏教の)信仰厚い法友、ということになる。

 けれども、鎮護国家宗教としての仏教に深く帰依し、玄奘を待ちわびる間に、高昌国は砂漠の中に消え去ってしまった。
 国王?文泰(きくぶんたい)の無念さは計り知れないものがあったであろう。
 玄奘自身も、来る時は砂漠の中に身を寄せ合うようにして繁栄していた国が、帰る時には消滅していたという現実を知って、様々な思いがよぎったことだろう。

 そのような背景が分かれば、私も仏教ファン(仏教徒ではない)の一人として、
 
 「私の魂が帰っていく場所

 ...という重い表現が十二分に納得できます。「仲間」という言葉を説明できるのは、そのような故事にまつわる話であるか、それ以外には作者にしか分からない何か深い思い入れになるだろう。

 言葉の裏側には作者の熱い思いが潜んでいます。
 それを過不足無く掬いとることが、詩の読み方として特に大切なことなのだと思う。
 けれども、言葉を意味的に使っている詩で、その手がかりが見当たらないとすれば、表現不足ではないか、という場合もあるだろう。
 なんでも「黙説法」で済ませるわけにはいかないはずです。謎めいたことを<謎>としておくのであれば、「深い思い入れ」は意味を失うことになるのではないだろうか。

 詩は通り一遍読んで解釈すべきものではない。じっくりと読み込むことが求められる、ひとつのよい例ですね。

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このページは、小林由典が2011年1月27日 22:58に書いた記事です。

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