「ざこキャラ」とは...(2)ざこの生態

世の中、「ざこ」と呼ぶほかない人間は、どうしてもいますからね、と合評会で評されました。大人の世界の話ではない。ざこということばの意味も知らない子供たちをざこキャラと分類する小学校...

 ...学園祭のシナリオに印刷することは、まったく意味が違う意味をもつのではないだろうか?

 第二節を見ていきます。

 この詩は何を言いたいのかといえば、
 十把一絡げの「ざこ」といってもいろいろで、
 それぞれに個性的な生態を示している、ということですね。

 たとえば、ふとしたことでひとの意外な面を発見したりすると、当たり前のことですが「人それぞれ、実にさまざまな、いろいろな経験を積んでここに居るのだな」という感慨にうたれます。しかし、普通はそういう隠された面をかいま見ることは少なくなく、知れば親しみを持つことができる。

 けれども、ほとんどの場合そういうこともなく、表面的な理解で他者を色眼鏡で見てしまう。
 だからこそ、あらゆる先入見を排して、ものを見ることが大切になってくる。
 このような人生経験は、大なり小なり誰でも経験することだろう。

 そういう反省があるならば、生徒を十把一絡げにして〈 ざこ 〉などとは間違ってもいえないはず。
 可能性のかたまりである子どもたちを預かる、小学校の担任であれば...。

 そういう思いやりのない粗雑な感覚でこどもたちが〈ざこキャラ 〉におとしめられた以上、
 社会に向かって詩を書いている者として、
 浅薄な表層言語を根底から解体していかねばならないかと思います。
 これは、けっしてひと頃はやった「言葉狩り」のような言い換えによるカモフラージュを提唱するものではありません。発語の根底にあるものを掘り起こさねばいけないわけだね。

 ざこ、といってもそれを思い浮かべる人のイメージは様々だと思う。
 それを解体していくには、個別的に取り上げてそのきらめく個性を指し示すことが第1の課題だと。

 ただし、雑魚と言っても数が多いので、私が釣りや磯遊びでよく知っている4種に限定しました。
 各魚の初めに修飾語を置き、「いおにあ」となるように、こじつけてみる。遊んでいるわけですね。

 私はこれらの魚をずいぶん釣っていますので、生きている魚の生命の躍動にほんとうに感動する。
 そういうものが、少しでも伝わればいいなと思います。

 想像力の貧しさ、
 汝自身を知ることもやらない無智、
 教育者が生徒を「類」で十把一絡げにする傲慢などなど、
 恥ずかしくなるのではないかとおもう。

 この第二節は、おとしめられた〈 ざこ 〉のイメジを再構築する、という意味があります。

     「ざこ(3)」 ことばの振る舞い に続く
 

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このページは、小林由典が2010年8月13日 18:22に書いた記事です。

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