「ざこキャラ」とは...(1)役がらではない

ことばは存在を措定する。措定することにより、物象化への過程をたどる。とくに他者に対して浅薄なレッテルを貼ることは、単に偏見の目で見るだけでなく、ひとを苦しめることにもなる。

 他者に対する想像力があれば、受難者の苦しみを推し量ることも可能であろう。けれども世の中には無神経な人間はどこにでもいて、口害をたれ流ししているのだね。

 ようするに「sophistcate」(ソフィステイケイト)されていない者たち。
 ※ ( sophistcated :洗練された、教養のある、上品な、都会的な、品格のある、知的な、賢明な)
 日本的に言えば「粋でない」ということになる。無粋なのだ。

         〈 イオニアの渚から 〉 「 ざこキャラ

 全体は三部構成になっていますが、章立てをやめて、一連の詩に組み替えました。

 第一節のテーマは雑草という草がないのと同様に、ざこという魚はいない、ということについて。

 ひとを揶揄して〈 ざこ 〉という場合は、
 パレートの法則でいう上位2割以外の、落ちこぼれそう(落ちこぼれ層とはあえて記さない。こぼれそうな人たちなのだ)という蔑視の意味あいを含んでいるだろう。

 これは集合論でいう類的分別(分類)のことばであって、
 劇の役割としてのことばではないという違和感を禁じ得ない。

 キャラというのは、概念語だと言うだけでは説明にならないだろう。
 たとえば「龍」というのは想像上の生きものだけれども、
 〈 龍キャラ 〉といえば、水神さまとして、天に昇るどこか恐そうなイメージが湧く。

 キャラということばと組み合わせて、ちょっとプロの脚本家みたいに洒落てみたのかもしれない。
 あるいは、お笑い芸人ふうに少しおどけて、印象を和らげようとしたのかもしれない。だが......、
 現実には、ファイナル・ファンタジーなどのR.P.G(ロールプレイング・ゲームなどで使われているのを、実に無造作に流用したようです。

 どちらにしても、以前の「その他大勢」の方が、まだマシなのだといってよい。
 その他大勢、というのは多少なりとも劇の役割を担っている。

 ギリシャ悲劇のように、コロスであれば、重層的な空間を生み出す構成要素となりうる。

 舞唱隊コロスは、ある種の共同性を演出し、ヒーローを生みだしていく基層を形成する。
 それと同時に、観察者的要素をもち、観客と舞台との橋渡しの役割をも担っている。

 『悲劇の誕生』において、ニーチェはコロスをディオニュソスの従者として、役者よりも重視する、
 ...という価値観の転倒を試みた。
 ギリシャ悲劇の役者とは、みんな姿を変えた(仮面を被った)ディオニュソスであるからだ。

 一見健康で明晰なアポロン的なものも、実はディオニュソス的なものの上に築かれた建築物だ、と。

 私は「明るい農村」というNHK的表現を借りて、アポロン的なものに対比させたけれど、皮肉であることは明らかだね。
 わたしの感覚でいえば、空しく明るい素朴で冷酷な田舎体質。
 それは日が昇るエーゲ海ではなく、日が沈むイオニア。イオニア学派の自然哲学者に比される。

 ギリシャ哲学のアポロン的なものは、ソクラテスからアリストテレス、プラトンというロゴス中心主義の大思想に連なるものだが、それは1980年代以降の構造主義的相対思想に脱構築化されていく。

 同様に、
 その他大勢を生む「主役中心主義」の、前時代的演劇構成は学校教育にふさわしくないと、
 コロスが生き生きとする劇へと脱構築をしなくてはならないだろう。

 〈 ざこキャラ 〉といった場合、劇の要素でもないし、役がらとしての関係性もない。
 脚本作者の乏しい想像力には納めきれず、R.P.Gから流用しただけなのだろう。
 とりあえず名前をつけただけであり、その実体はないに等しい。
 教育的な配慮というものは、すっかり忘れ去られているようです。

 〈 ざこキャラ 〉ということばは、それを知らなかった子どもたちの間に、
 〈 ざこキャラ 〉と呼ばれる生徒を出現させた、といってよい。
 意識の上に、言説として明示したわけです。
 役割(ロール)を与えられていない登場人物として。

 キャラと呼ばれるキャラクターは、
 デフォルメされることによって、キャラ立ちをしていくものだ。
 子どもたちの間で〈 ざこ 〉と何度も呼ばれるようになり、
 その子たちは〈 ざこキャラ 〉にさせられる。こころの屈折する「受苦」の始まりとなる。

 そして、いつまでも「お笑い」にさせられ続けるのだね。
 ことばは、やがて物象化への過程をたどる。
 〈 ざこキャラ 〉という悪しきレッテルは同時性を持って広まり、次世代にも受け継がれ、
 ノーテンキにカラ明るい田舎の「学校文化」になっていくだろう。

 人権感覚が希薄な田舎の学校の、空しく明るい人間疎外の一端を思い知らされるのだ。
 親が怒ったところで、鈍感な人間には本当のところは切実につたわらない。

 学校の三者面談で、
「頭が偏った子ですけれど、それを個性として伸ばすことを考えている」と担任に話をしました。

 ウンウンと頷いていた先生は、そのあとで、
 「英語が得意で、やればできる子なんだから、苦手な算数もがんばろうね!」って、さ。

 好きなこと、得意なことは少しの努力でも飛躍的に進歩することができるけれど、
 苦手なことは10倍がんばっても10分の1ほどの結果も出せず、特異なことを伸ばす意欲を奪う。
 ならば、得意なことを大きく伸ばしたい、という話をしたのを受けて、この発言だ!

 平均点教育というバカの壁に頭をぶつけて、言語中枢を破壊されているのだろうか?

       「ざこ(2) 」 雑魚の生態 に続く

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このページは、小林由典が2010年8月12日 19:36に書いた記事です。

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