『ユネンティダ』(飽浦 敏)の価値(3) クェーナ形式

この詩は、神権から王権へという形の『おもろさうし』を、庶民主体に脱構築していると見ることができる。ただし、表現としては両者の対照をクェーナ形式で表しているだけであるが。

 引用した「おもろさうし」は岩波書店、日本思想体系(外間守善 西郷信綱)ですが、編集方針として元々はほとんどかな文であったものを、漢字仮名交じりに変え、もとの仮名をルビとして振っています。
 したがって、ティダはウチナーぐちの発音表記であり、『おもろ』では「てだ」と書いて、発音は「ティダ」ということになります。

  『ユネンティダ』という題は、それだけでも作者の言語意識が表れているようです。
 その意図はおいおい解明して参ります。

 この詩を最初に読んだとき、ひと言で言えば我が国で失われた「農村の原風景」のようなものであり、この詩はたとえば東南アジアとか中国、あるいは南米とか、さらにはヨーロッパに当てはめても通用する世界性あるいは普遍性をもった詩だな、と。

 過剰な抒情性を排して、淡々とことばが紡がれており、円熟味を感じる。
 単なる望郷の歌にしては、重い内容をかいま見させてくれる。いい仕事をしているなァ!
 ...... という印象でした。

 それで、再度読んだときは、ニーチェの『ツァラトストラはかく語りき』のことば、
 「神は死んだ」(死ぬべきだ)
 「あなたが死ぬときにも、なおあなたがたの精神と、あなたがたの美徳が、大地をめぐる夕映えのように、輝かねばならない。さもなければ、あなたがたの死は失敗なのだ」

 ...ということばに連なる世界だな、という印象を受けました。極私的な深読みかもしれない。

 なぜかと言えば、
 神歌である『おもろさうし』を換骨奪胎して、
 「てだ」の意匠であるオボツカグラにつながる自然的感性の意味をひっくり返し、
 神権→王権へという天授思想ではなく、「てだ」の元々の意味である自然の太陽に戻し、
 <島ちゃび>を近代的庶民の世界へと構築し直している、

 ...と思えるからです。

 真栄里村の西を 一筋の鄙びた道が
 街の方へと延びていた。
 その道を通って私は村へと家路を急いでいた。
 こつこつと後から近づいてくる音に
 ふとふり向く と
 驢馬に似た島馬の背に身を預けた男が
 土にまみれた作業着のまま 白髪頭にクバ笠姿で
 ゆらりゆらり ゆられていた。

 このクバ笠のクバとはビロウ樹のことで、
 屋久島の故・山尾三省さんの詩集に『ビロウ葉帽子の下で』というのがあります。

 実は、このビロウ樹は我が国でも、伝統的に最高に神聖な植物に属しているのですね。
 桜や松などよりも神聖な樹、それがビロウ樹なのです。南島系文化の遺制でしょうか。

 ビロウ樹は、御世代わり(天皇が交代する)時に、天皇が斎戒沐浴する御簾(みす)の壁材として使われるもので、それを使ったクバ笠を頭に頂き、踊りを奉納する分にはよいのですが、労働のための日よけ笠にするというのは、意味性があるように思えます。

 琉球王権が成立する以前からの伝統的な風俗として単に描いたのか、あるいはクバ笠を野良仕事用の帽子として、あえて表現しようとしているのか?
 ここでは、問わないことにする。

 さて、真栄里村ですが、詩ではマエザトムラとルビが振ってあります。
 これは申し上げるまでもなく、日本国政府が定めた行政単位の表記ということですね。
 地元の人たちの呼び方ではないだろう。

 ウチナーぐちの「ユネンティダ」のすぐ後に、マエザトムラというヤマトンチュの表記があり、その対比が際立っています。


前里村 地図の右方に灰色で塗った部分が石垣市真栄里村です。村は北に向かって細長く続きますが、村の西を道が通っているところは主としてこの地域になるかと思います。

 作者は昔、石垣市役所に官吏として通っていたようですので、歩いて行ける距離としてはこの地図の範囲と考えて良いでしょう。

 ふつう、地図で場所を見るなどと言うことは詩の解釈には無意味なことなのですが、なぜ真栄里村という固有名詞を出しているのか、という疑問があったからです。
 この点については、次回に取り上げます。

 さて、全体を一読して、対照的な表現がイメジを鮮明にする手法が目立つことに気づきました。

 ・「ウチナーぐち」と「大和言葉」
 ・『おもろさうし』の表記とこの詩の「ウチナーぐち」
 ・街と村
 ・農民と官吏
 ・男(=馬車のリズム)と私の歩行リズム (島馬vs大和の馬も暗に対照されている)
 ・真昼の太陽と夕空の日
 ・労働と安息
 ・トゥバラーマ(恋歌)と島ちゃびの歌詞内容 (島ちゃび=離島苦)
 ・歓世(=甘世)と苦世
 ・ユネンティダ(=外界)とトゥバラーマ(=内面世界)
 ・ユネンティダ(=夕日)と東方(=あがるい)の日も暗に対照されている

 多くの対照関係を示しており、それらが「一筋の茜の道」に収斂していくのである。

 実は、この構成は本来が『おもろさうし』から受け継いでいるもの、といってよいだろう。

 クェーナ形式=対語・対句を繰り返しながら事柄を確かめつつ、次第に全体の事柄を進めていく
          古い歌形。
 オモロ形式=対語によるくり返しを持たないまま事柄を進め、短く事柄や断片が構造化される。

 この『ユネンティダ』の構成は、前半はクェーナ形式の現代詩的表現であり、
 後半はオモロ形式のそれである、という見方ができよう。

 本歌を参照してみると、

     苦世甘世なすてだ  (不作を豊作に変える天道様)

     真人 輝(きゃが)しよわれ

 ...ということになる。
 
 後半の真人というのは、今日的に言えば庶民のことですね。

 『おもろさうし』にこの歌を見いだしましたので、
 ニーチェの『ツァラトストラ』の影響ではないようだ、と思えます。

 ではこの換骨奪胎ぶりはどこから来るのか、ということになる。それで、地図を見たわけです。
 どうも、単なるリアリズムではなく、多分に社会主義リアリズム的な趣を感じますね。

 神権から王権へという形のものを大衆(社会主義リアリズムでは民衆)主体に転倒させている意識はマルキシズムのそれなのではないかと。

 沖縄には新聞が二紙ありますが、どちらも同じ左翼系新聞社から発行されているとか。
 まあ、そういう問題は、ここでは重要ではありませんが、神歌である『おもろさうし』を材料に、今日的感覚で再構築している詩業ではないかな、と思えます。

      「ユネンティダの価値(4) 」に続く

トラックバック(0)

トラックバックURL: http://mediaxross.net/xnt/xzx/mt-tb.cgi/82

コメントする

この記事について

このページは、小林由典が2010年8月 7日 22:06に書いた記事です。

ひとつ前の記事は「『ユネンティダ』(飽浦 敏)の価値(2) おもろさうし」です。

次の記事は「『ユネンティダ』(飽浦 敏)の価値(4) ニライカナイ」です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。

カテゴリ別記事一覧

アーカイブ

OpenID対応しています OpenIDについて