『相聞』を読んでから、にわかに短歌に興味をいだいてしまった。ほんとうに「柄にもなく」なのだけど。
学生時代、短歌をやっている後輩がいて岡井隆の本を貸してくれたことがありましたけれど、結局読まずに半年後に返してしまった記憶があるだけ。
学生時代、短歌をやっている後輩がいて岡井隆の本を貸してくれたことがありましたけれど、結局読まずに半年後に返してしまった記憶があるだけ。
先日八重洲ブックセンターで待ち合わせをした際に、少し時間があったので店頭の本を眺めていて、大岡信の『詩の日本語』という本を見つけて買って帰りました。
まだ読み始めたばかりですが、改めて日本語は奥が深いという気がします。けれども、現代人はその文化的つながりをほとんど継承していないといってよい。
私は現代詩に多少なりとも係わっていますので、言葉というものを大事にしている方かと思いますが、それでも現代詩に入っていく場合に伝統とか歴史ということはさほど考えてきませんでした。
せいぜいさかのぼって荒地派と呼ばれる戦後詩からになります。
戦前の詩はほとんど読んでいないに等しいでしょう。先端技術と同様に、最先端の部分に興味の中心が行ってしまい、戦前のものは過去の遺物程度にしか見なしていないようです。
口語自由詩ですから、和歌や俳句のような定型というものは当然ありません。
約束事としてあるとすれば、伝統的定型を排除するという方向性にしかない。文語を否定し、七五調を排して、言葉の意味性を破壊し、ロマン派的な叙情を排し、わびさびや余情に目もくれず、...
ほとんど、伝統の破壊ですね。
詩を書くことは決して楽しみではなく、全く正反対の行為となる。
言葉を呪いのように感じ、言葉を憎んで書く。
そのような営為を続けていると、疲労した頭脳が甘いものを欲しがるように、伝統的な感受性に浸りたくなるのかもしれない。これを、老いに伴う先祖返りという「裏切りだ」と自戒すべきなのか?
言葉による表現者たらんとする以上、連綿と連なる日本語の伝統を学んでおくことは意味があるはずだと思うのだけれど、やり出したらきりがなくなるでしょう。
単なる知識として身につけようとしても、根気も興味も持続しない。その必要性がなければ。
そうなるためには実作する立場になればよいのだけれど、例えば短歌を鑑賞する人は短歌を詠む人だという構図が、ここにも当てはまっているようです。
99%の日本人は短歌を鑑賞しない、といってよい。
私が『相聞』を手にしたのはある偶然であり、相聞というジャンルの歌にこころ惹かれるものを若干感じ、読んで面白かったのは歌ではなく自注の内容でした。言ってみれば、女性週刊誌的興味で読んで、自注の内容に好奇心を満足させられたという身も蓋もない話になってしまう。
それでもやはり、相聞歌というジャンルが成立している短歌には他にはない魅力があることは確かだ。生活を詠った表現ならば、女性詩人の生活詩というものがあり、定型に囚われない自由な表現で現代というものを縦横に捉え、優れた表現世界を展開している。
けれども、抑制の効いた恋心を惻隠の情として表現する相聞歌は、現代においても色あせない魅力を持っていると思う。
詩の方では毒をまき散らしているかのごとき私にとって、相聞歌を綴ることは甚だしく恥ずかしいことには違いない。
数日前に、地元の短歌のサークルにお邪魔させていただき、見学をさせていただいたのですが、大変勉強になりました。高校の古文で学んだこと以上の知識も教養もない人間ですから、一つ一つが新鮮でした。
指導されている先生は私よりも二回り年上ですが、非常に深く読み込まれる方で、その的確さに驚くほどです。
合評回は先生の添削がなされるわけですが、適切に収まっていないジグソーパズルを、ほとんど職人技といってよい手際の良さでピタッと収めてしまう手腕は鮮やかなものですね。
お一人、感覚的な印象をその視覚あるいは皮膚感覚のままに作歌された方がおられまして、女性詩人としていいなという歌がありました。けれども、伝統形式を 重んじる先生は、その自由さを評価しつつも、本筋ではないのでそればかりだと「おふざけもほどほどに」ということになります、と釘をさしておられました。
その辺で、想像力が天地を自由闊達に飛翔する現代詩とは相反することになるな、という思いを抱きましたね。
それで、にわかに大岡信の本を読み出したのですが、たとえば「世の中」という語一つをとっても、その精神的な背景・伝統の根は深く、一千年の昔まで達しているのだ、という。
これは、勉強しないといかんなと身震いしてしまうのですけれども、実作をすることによって己が無知を痛感し、恥じ入ることで意欲をかき立てるしかないのでしょう。
庭先の梅を見て、毎年写真を撮って、ただすばらしいとだけ雑文を書いていてはなんの進歩もない。かといって、現代詩で梅を愛でるということを書くことはできない。
引きこもって、夕食の買い物に出かけるだけの私にとって、恋人は庭の花しかありません。けれども、それを表現する手段を持たないというだけで雑文を垂れ流すべきではないだろう。
このようないい訳をするために、長々と前口上を述べてしまいました。

最初と最後の句は、相聞ではありません。雑文で書いたことを、歌にしたものです。
中の二首が相聞歌のつもりですが、恥ずかしい。
三句目は「誰がため」と問いながら、「いはれもなくて」と自分で閉じてしまっているので、片恋歌にしかなっていないのでしょう。
画像が表示されないブラウザ用に、テキストをつけておきます。
待ちわぶる春を告げるや梅つぼみ
こごえるわれもこころふくらか
はだ寒き夜やみにただよふ梅が香は
帰りし君の残り香とまがふ
誰がため匂ひおこせし梅の花
わが胸乱るるいはれもなくて
花散らし梅の蜜吸う鶯は
その香に酔ひて歌いだすらん
それにしても、会長さん以外は女性ばかりの短歌サークルでしたので、気恥ずかしくてとてもこんな歌は提出できないな。というより、また顔を出す勇気も持てないでいるのですけどね。
といいつつも、誰かしらの返歌をじっと待っていたりして...
現代詩とちがって、ロマンチックでいいね、相聞歌。
まだ読み始めたばかりですが、改めて日本語は奥が深いという気がします。けれども、現代人はその文化的つながりをほとんど継承していないといってよい。
私は現代詩に多少なりとも係わっていますので、言葉というものを大事にしている方かと思いますが、それでも現代詩に入っていく場合に伝統とか歴史ということはさほど考えてきませんでした。
せいぜいさかのぼって荒地派と呼ばれる戦後詩からになります。
戦前の詩はほとんど読んでいないに等しいでしょう。先端技術と同様に、最先端の部分に興味の中心が行ってしまい、戦前のものは過去の遺物程度にしか見なしていないようです。
口語自由詩ですから、和歌や俳句のような定型というものは当然ありません。
約束事としてあるとすれば、伝統的定型を排除するという方向性にしかない。文語を否定し、七五調を排して、言葉の意味性を破壊し、ロマン派的な叙情を排し、わびさびや余情に目もくれず、...
ほとんど、伝統の破壊ですね。
詩を書くことは決して楽しみではなく、全く正反対の行為となる。
言葉を呪いのように感じ、言葉を憎んで書く。
そのような営為を続けていると、疲労した頭脳が甘いものを欲しがるように、伝統的な感受性に浸りたくなるのかもしれない。これを、老いに伴う先祖返りという「裏切りだ」と自戒すべきなのか?
言葉による表現者たらんとする以上、連綿と連なる日本語の伝統を学んでおくことは意味があるはずだと思うのだけれど、やり出したらきりがなくなるでしょう。
単なる知識として身につけようとしても、根気も興味も持続しない。その必要性がなければ。
そうなるためには実作する立場になればよいのだけれど、例えば短歌を鑑賞する人は短歌を詠む人だという構図が、ここにも当てはまっているようです。
99%の日本人は短歌を鑑賞しない、といってよい。
私が『相聞』を手にしたのはある偶然であり、相聞というジャンルの歌にこころ惹かれるものを若干感じ、読んで面白かったのは歌ではなく自注の内容でした。言ってみれば、女性週刊誌的興味で読んで、自注の内容に好奇心を満足させられたという身も蓋もない話になってしまう。
それでもやはり、相聞歌というジャンルが成立している短歌には他にはない魅力があることは確かだ。生活を詠った表現ならば、女性詩人の生活詩というものがあり、定型に囚われない自由な表現で現代というものを縦横に捉え、優れた表現世界を展開している。
けれども、抑制の効いた恋心を惻隠の情として表現する相聞歌は、現代においても色あせない魅力を持っていると思う。
詩の方では毒をまき散らしているかのごとき私にとって、相聞歌を綴ることは甚だしく恥ずかしいことには違いない。
数日前に、地元の短歌のサークルにお邪魔させていただき、見学をさせていただいたのですが、大変勉強になりました。高校の古文で学んだこと以上の知識も教養もない人間ですから、一つ一つが新鮮でした。
指導されている先生は私よりも二回り年上ですが、非常に深く読み込まれる方で、その的確さに驚くほどです。
合評回は先生の添削がなされるわけですが、適切に収まっていないジグソーパズルを、ほとんど職人技といってよい手際の良さでピタッと収めてしまう手腕は鮮やかなものですね。
お一人、感覚的な印象をその視覚あるいは皮膚感覚のままに作歌された方がおられまして、女性詩人としていいなという歌がありました。けれども、伝統形式を 重んじる先生は、その自由さを評価しつつも、本筋ではないのでそればかりだと「おふざけもほどほどに」ということになります、と釘をさしておられました。
その辺で、想像力が天地を自由闊達に飛翔する現代詩とは相反することになるな、という思いを抱きましたね。
それで、にわかに大岡信の本を読み出したのですが、たとえば「世の中」という語一つをとっても、その精神的な背景・伝統の根は深く、一千年の昔まで達しているのだ、という。
これは、勉強しないといかんなと身震いしてしまうのですけれども、実作をすることによって己が無知を痛感し、恥じ入ることで意欲をかき立てるしかないのでしょう。
庭先の梅を見て、毎年写真を撮って、ただすばらしいとだけ雑文を書いていてはなんの進歩もない。かといって、現代詩で梅を愛でるということを書くことはできない。
引きこもって、夕食の買い物に出かけるだけの私にとって、恋人は庭の花しかありません。けれども、それを表現する手段を持たないというだけで雑文を垂れ流すべきではないだろう。
このようないい訳をするために、長々と前口上を述べてしまいました。
中の二首が相聞歌のつもりですが、恥ずかしい。
三句目は「誰がため」と問いながら、「いはれもなくて」と自分で閉じてしまっているので、片恋歌にしかなっていないのでしょう。
画像が表示されないブラウザ用に、テキストをつけておきます。
待ちわぶる春を告げるや梅つぼみ
こごえるわれもこころふくらか
はだ寒き夜やみにただよふ梅が香は
帰りし君の残り香とまがふ
誰がため匂ひおこせし梅の花
わが胸乱るるいはれもなくて
花散らし梅の蜜吸う鶯は
その香に酔ひて歌いだすらん
それにしても、会長さん以外は女性ばかりの短歌サークルでしたので、気恥ずかしくてとてもこんな歌は提出できないな。というより、また顔を出す勇気も持てないでいるのですけどね。
といいつつも、誰かしらの返歌をじっと待っていたりして...
現代詩とちがって、ロマンチックでいいね、相聞歌。
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