藤林叡三の視覚について

藤林叡三の画風の変遷をみると、表面を描くはずの絵画において、作者の視線が表層から深度を増していくように思える。人間の内面、言葉の届かない詩的世界という趣だ。

 藤林叡三の絵について考えをまとめるために、朝から書見台に画集を広げて、その画風の変遷を見てきました。

   藤林叡三「変容する風景」

変容する風景 シュルレアリスムの影響を受けていた頃の幻想的な絵のひとつ。
 1973年45歳の頃の作です。

 衝撃的な幻想絵画群が有名ですが、どうも日本的な感性からは外れた感じで、私としては後期から晩年の作風に惹かれるものがあります。

   「一刻」(1986年)

ikkoku.jpg

 絵は、キッチンドリンカーの女性を描いたものですが、藤林は何を視ているのだろうか?

 印象派の絵ではありませんから、光源のことを言ってもしょうがないのでしょうが、顔を見ますと、台所の窓あるいは流しの上にある蛍光灯から光が当たっているようです。
 左上まぶたに僅かに光が当たっているという位置関係があります。

けれども、後ろの壁の陰を見ると、女性の正面上あたりにも光源があるようです。

そして足下を見ますと、右手横の方からも弱い反射光が当たって、スカートの裾と足の影が見えている。

 部分部分はすべて写実的に描かれていますが、光の具合がどうもリアルではないように思う。

 小さな白黒写真を見ただけの印象ですので、見落としがあるかと思います。

 それで、女性の視線は中空を凝視していて、心ここにあらずという物思いの風情。知的な感じの美人ですね。

 それにしても、ネコが傍にいて、見上げていなければ、亡霊といっても通用しそうなほど、希薄な存在感の描写です。

 藤林が表現しようとしているのは、魂の抜け殻となっているひとりの女の姿なのか?
 あるいは、心の中を去来するものを見つめているひとりの女の精神状態なのか?

 絵は表面を描写する芸術である、という定義を信奉する人たちは多分、前者を支持するのだろう。
 私のように、絵に「視覚の芸術」という以上の意味性を感じてしまう者は、邪道だといわれるのかもしれない。

 けれども、藤林の絵には意味がありすぎると感じるのは、私だけなのだろうか?
 この絵の光は三方向から来ている。

 横からの光は、表情に陰影を際だたせて、明暗のもつ対比的な象徴性を負わせているはずだ。
 内面と外面、此岸と彼岸、生と死、希望と絶望、願望と失望...

 そして後ろの影。正面上からの光がなければこの影は現れるはずがないのだけれども、女性のおでこは光を受けていないのだ。
 とすれば、この背後の影は物理的な<影>として描かれているのではなくて、心理的な<陰>として表現されているのではないか、という気がする。

 そして、スカートと足の影...
 これは、ありきたりに言ってしまえば、お化けではないから足がある、と。上からのダウンライトの影にとけ込んでぼんやりと見えてはいますが、その足の存在を補強しているかのような影の描写です。

 白いタイルが床まであるという台所の壁というのは、日本の建築としては珍しいかと思いますが、そこにうっすらと現れている女性の影...藤林が視ているのは、これなのだろうな、という感じを持ちます。
 女性の姿ではなくて、後ろの影に焦点距離が合わせられているのではないか?

 このような台所という日常生活の場における非日常的なモチーフを選んだということ自体、そのモチーフに強い関心を抱いていたということだと思いますので、視覚以上の意味性がにじみ出ていると解釈しておきます。
 (私自身がこの絵に続く修羅場の20年間を経験していることも、この絵に強く惹かれる理由があるのですが...)

 それでは、有名なこれらの絵はどうなのだろうか?代表作として「前の座席の男B」

電車の男2 なんとも、変な感じがする絵です。
 伊藤画伯が「音を感じない、別世界のような絵。藤林は耳を塞いでしまったのでしょうか...」と評した絵の一群です。

 元々絵画は、時間的連続の一瞬を切り取った「音のない世界」ですけれども、それを前提にしても、音の要素が感じられない静寂さが際だっていることは確かです。

 画集の記述によると、
「深刻というより、沈痛な表情は石像のように動かない。何かを思い詰めているようで、そこだけ別の空気が漂う。(中略)向かい側にすわっていた私の目は釘づけになり、車内は其の時、私と熟年の(男との)二人だけになった。その後、熟年を私自身の自画像とだぶらせて... 」 と述べています。

 この絵の何が、音のなさをことさら印象づけているのだろうか?
 それは多分、写実的な表現の中に非現実的な要素を滑り込ませているからなのではないだろうか。

 写真であれば、このような構図の絵には絶対になりませんね。
 たとえば、向かいの窓ガラスに映ったこちらの側の人。
 三人の男性が描かれていますが、この中に「私」はいません。
 いるといえばいるのでしょうけども、前の座席の男を描いた視線と、自分を描いた視線は同一とは言えない。
 画布の左外にいるとしたら、少年のランドセルを含めた左側面がもっと隠れなければいけないでしょう。

 そのほかにも変なところがいくつかあります。

 右端の女性は、重心のあり方からいって手すりの横バーに腰を当ててもたれかかっているはずですが、それ(横バー)が見えない。
 白い壁面には影が描かれているのに、その下の座席部には影がない。この座席は本来、白線の部分で終わっていなくてはならないのに、手すり棒によって右と左の空間が分かたれているように描かれている。

 少年の足ははっきりと描かれているのに、男の足は幽霊のようにかすんでいる。

 ガラスに映ったこちら側の男性の顔がはっきりと描かれているのに、直接見えている少年の顔は幽霊のようにかすんでいる。

 一見して写実的な絵ですけれども、細部においてシュールな描き方を滑り込ませています。この、ような技法によって、「前の座席の男」だけを異様に際立たせています。
 写実的な絵という思い込みを前提にした視覚が感じる妙な違和感を計算して描いているわけですね。

前の座席の男

 この絵でも、手すりの下の方がかすんで消えています。
 そして、つり革は輪の部分だけが描かれています。

 このように、視覚的な違和感を随所におくことによって、非現実的空間を表現している。

 藤林がシュルレアリスム体験で獲得した隠されたシュルレアリスムとでもいうべき技法なのでしょう。
 藤林はこの手法に到達することによって、はじめてく戦中戦後の暗い青春期、戦後の闘病生活などで刻まれた心のひだを描写しうるのではないかと、思えるようになったのだと思う。

 80年代後半から、藤林は日常生活の光景のなかで感じる様々な人間ドラマ、気持ちの起伏というものを描きたいという考えるようになる。
 日常の光景を描きながら、その対象を描いている自分の内面あるいは対象に投影された共感といったものを描く手法として、この表現方法が必然的に生まれていった、といってよい。

  展覧会を回ってみると、表現の方法論的なものが先行して、なぜこの表現でなければならないのか?という問いに答えうる絵に出会うことははなはだ少な い、と感じる。漫然と描かれた、という絵画作品が臆面もなく展示されている現状をみると、やはり藤林叡三という画家の深い人生経験と技術的な到達点を強く 感じる。

 それ以上に、絵画は表面を描く芸術だというアカデミズムの教授職にありながら、それを逆手にとったような表現方法を模索したこの画家に、私はひとかたならぬ共感を持ってしまうのだ。

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このページは、小林由典が2010年1月13日 20:40に書いた記事です。

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