A.Giacometti のDVDを見て(1) 彫刻とは...

ジャコメッティのDVD 『本質を見つめる芸術家』を買いPCで見て、本当に感動しました。学生時代にジャコメッティをもっとよく知っていたら、と本当に残念だなと思う。

デッサン ナレーションは次のように語っています。

  「彼がやりたかったことは
  まず 彼の見たものの
  正確な表現をカンバスに置くこと

  さらにモデルの外観だけをカンバスに置くのではなく
  彼の視覚感情をも表そうとした

  モデルの外観を越えて
  その真の正体を見つけようとした

  見えないものを
  見えるようにしようとした」

制作 まさに、私が20代のころに悪戦苦闘した課題のひとつがこれだったと思う。
 自画像を描くという課題は、鏡に映る自分の目を描くことができず、石膏像の如き目の白い絵でストップしてしまうのだった。

 あるいは、小学生の私はドウダン・ツツジの紅葉の美しさに感動して赤絵の具の乱舞のような絵を描いて、女教師から「赤色が下品ね」と寸評されました。

 けれど、現在の私であればこの赤絵の具の乱舞と、ゴッホの『麦を刈る人』の真っ黄色の絵の具の厚塗りとは同質性を持っており、上品下品などという紋切り型の常識に凝り固まった批評など何の意味もないと言い返すこともできるでしょう。

 表現力の違いは、自分の生き方として画家を選んだゴッホとは比較になりませんけど...。

 ゴッホは絵が売れず、自殺を考えるようになり、精神病発病数日前に描き始めたのがこの『麦を刈る人』でした。かれは弟のテオ宛に、この絵についての手紙を書いています。

 「モチーフは美しく単純です。炎熱のもと、仕事をやり遂げようと悪鬼の如く戦っている農夫に、人間は神が刈る麦に如かずという意味で、死の影を見た。しかしその死の中には何ら陰鬱なものはなく、純金の光に溢れた太陽とともに明るい光の中で事は行われている」。

 純金の光に溢れた光景として黄色い絵の具の「おそろしいほどの厚塗り」がなされた、ということです。

 私は秋の日差しが傾きかけた時間に現出したドウダンの美しい紅葉に魅せられ圧倒され、秋の夕日はつるべ落としという短い時間にせかされて、永遠の一瞬を定着しようとした。
 刻々変わる光の具合を追いかけるように赤い絵の具の色調を変えながら、水彩画的ではない絵の具の重ね塗りをし続けた。

 あのときの心の中は、ほとんど狂気に近い熱狂のようなものであったのかと思う。
 そのような視覚感情に囚われていたのだといってよい。

 ジャコメッティはそのような視覚感情をも表そうとした、と。

 思うに、かれは対象に向かうと瞬時にゾーンに入ってしまうことができる人だったのではないか。
 倦むことなくデッサンをしているうちに、常人が使わない視覚的脳の領域が開発されて、まさにジャコメッティ的視覚を働かせていたのではないか...。

 200手先まで駒を動かして見ることのできる棋士や、架空のそろばんをはじいて計算ができる算盤の達人とか、常人とは違う脳の領域を開発している人はいろいろいますから。

 「彫刻は鑑賞物ではない。見えるものを少しでも理解しようとする手段なのだ。
  どんな頭部だって、私を惹きつけ驚嘆させる。彫刻はその理由を知る手段なのだ。」

 「また、絵画という手段は、人や木や卓上のものがなぜ
  私をこれほど惹きつけ、驚嘆させるかを理解する手段だ。」

 雨上がりの柿の若葉が西日に透けるさまに我を忘れて呆然としていた頃、こういう言葉を知っていたなら、俗物口害に傷ついて絵を描くのをやめたりしなかったでしょうね。

 「一人の娘をデッサンしていて、突然気づいた
  生きている唯一のものは、彼女の視線だ
  残りの頭の形は、むしろ頭蓋骨にすぎない

  生者と死者の違いをなすのは
  視線なのだ」

 若かった私が聞いたなら、ほとんど神の声のように受け止めたかもしれないな。

 「私が進歩を感じるのは、肉付けしているナイフをどう握っているのか
  もう分からなくなっている時だ。
  全く途方に暮れてしまい
  でも なんとか続けることができると愚かになった時
  それこそ進歩の好機なのだ」

 今日は昨日より少しでも良い仕事をしようというのが、何の信念も持てない私の唯一の信条みたいな、あるいは強迫観念ですけれど、そういう進歩を感じない日は苛立って、寝る時間がもったいないと腹立ちを覚える。

 ジャコメッティの場合、モデルがいる事ですから、自分の都合で仕事を進めるわけにはいかない。
 それで、仕事を中断して深夜の夕食をとりに出かける時「くそ、はやく明日にならないかな!」と口走る時がしばしばあったようです。本当に、そうだ、と思う。

  「頭や人は絶え間なく、内も外も動くものに過ぎない

  それらは形を変え続け、真の一貫性を何も持たない
  それらは立方体でも円柱でも球でも三角形でもない

  それらは動く塊であり、つねに変化し 決して捉えられない」

 視覚芸術に携わるジャコメッティの言葉ですから、そのまま当てはまるものではないにせよ、人間存在の正体を凝視して言葉に定着しようとするなら、変わりがないと思う。

 人間存在は絶え間なく 内も外も流転している
 それらは現象としてのみ現れるけれど つねに変化し 決して捉えられない
 決して捉えられないからこそ 魅惑され 永遠に追求し続けることになる

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このページは、小林由典が2010年1月22日 23:36に書いた記事です。

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