「(アルベルト君、きみは)いつ面をつけて作ってゆくのかね?」教師は何度も(彼に)訊ねた。
「仲間の学生は大きなかたまりを積み上げて作っていたが、私にはモデルは一本の糸のように見えた」
「(面をつけて作ってゆく!)そんなことは不可能だった!」
「仲間の学生は大きなかたまりを積み上げて作っていたが、私にはモデルは一本の糸のように見えた」
「(面をつけて作ってゆく!)そんなことは不可能だった!」
1919年、ジャコメッティの父親は彼をジュネーヴの美術学校に送り出した。
彼は正規の学生だったが、学校を去り...。 ↓ (A.ジャコメッティ 「歩く人」)
この一節を読んでいて、わたしは世の中の俗物たちがまき散らす口害について、ひとこと書いておきたくなった。
あたかも噴霧器のごとく枯れ葉剤のような口害をまき散らす、人間たちについてである。
その1
痛みかけていた旧立石邸の茅葺き屋根を黙々と補修しながら、立石大河亜さんとわたしはいろいろなことを話し合っていた。その中で、立石さんは...
「高校の時に、画家としての道を歩もうと決心をしたのだけど、担任の先生がぼくの絵を見て、立石君、きみの絵はどう見ても才能があるとは思えないから、画家になろうなどという夢はあきらめた方が良い、という進路指導をしたんですよ」と言って、皮肉っぽい笑いをみせた。
「そうですか。ぼくの場合は、小学の時、写生の時間に、紅葉しているドウダンツツジの垣根に感動して様々な赤でそのドウダンの紅葉を表現したのですけど、その赤色が溢れているのが下品だといわれましてね...
どうしても、自分が見ている目もくらむほど美しいドウダンの赤が表現出来なくて...
それで、いろいろな赤色を調合して塗っていて、油絵のようになってしまい...
授業時間切れで教室に持ち帰ったのですけどね。
水彩画にはふさわしくない、赤色絵の具の厚塗りでしたから...」
「そういう先生は、柿右衛門の絵だって下品だというはずだよ」と、立石さんは言った。
「俳画じゃあるまいし。ちょっとしゃれたセンスの良い絵にだけ良い点をつける女の先生でした...」
同じ話を伊藤雄人画伯に話すと、「絵というと印象派の絵しか思い浮かばない日本人がほとんどだからね」と、我が国の文化的貧困を皮肉った。
後日、集落地区の集まりがあって、酒席の時に長老の一人が「立石さんの絵って、うまいんかね?下手なんかね?俺には、何が良いんだか、わかんネーけど」というような発言をしたことがある。
馬の耳に聴かせる念仏などありはしないだろう。
その2
マロニエの並木が立ち並ぶ坂道を上り詰めると、現代彫刻家である飯田善国さんのお宅が見えてきた。
玄関から応接間にいたるエントランスに、ピカピカに光る金属製のオブジェがカラフルな組紐でつながれた作品がお客を誘導してくれる。
飯田善国さんはミラー・モビールに代表される金属製の巨大なモニュメントを制作する作風で、風で動く大がかりなモニュメントなど有名だった。
故郷の足利市の思い出話になると、飯田さんは「石もて追われるように、故郷を出てきた」という話を、いささかの憤慨を込めて語り、栃木県は首都圏と東北の間の文化の渡り廊下に過ぎない、と表現した。
わたしたちはその故郷の代表団のような形で訪問させていただいたのだが、団の偉い方が帰り際にエントランスに並ぶオブジェと紐の作品を指さして、
「これは、しゃれた手すりですね」とご愛想を言ったのだった。(参考画像)
飯田さんの後期の作品に見られるステンレスの柱と色とりどりの紐は、「クロマトフィロロギア(色彩言語学的方法)」と呼ばれる詩と彫刻を組み合わせた深い意味を持つ作品なのだ。
アルチュール・ランボーの『地獄の季節』にあるように、色彩と言葉を対応させた、色彩語によるメッセージ性を含む造形なのだ。
私は母音の色を発明した
Aは黒、Eは白、Iは赤、Uは緑、Oは青、母音たちよ
郷里で理解されずに追われるように飛び出して、いまや現代モニュメントの大家として知られる彫刻家を表敬訪問したというのに、展示してある作品をこともあろうに「手すりだ」と...。
渡り廊下を土足で歩く野蛮人の一員であることにいたたまれなくなった。
人参の絵など無用の長物、馬を走らせるのは人参そのものだ、ってか?
単純な人間が単純なことを大声で主張することは、ばかばかしいほど力強いよね。
...内容は空疎だけど。
彼は正規の学生だったが、学校を去り...。 ↓ (A.ジャコメッティ 「歩く人」)
この一節を読んでいて、わたしは世の中の俗物たちがまき散らす口害について、ひとこと書いておきたくなった。あたかも噴霧器のごとく枯れ葉剤のような口害をまき散らす、人間たちについてである。
その1
痛みかけていた旧立石邸の茅葺き屋根を黙々と補修しながら、立石大河亜さんとわたしはいろいろなことを話し合っていた。その中で、立石さんは...
「高校の時に、画家としての道を歩もうと決心をしたのだけど、担任の先生がぼくの絵を見て、立石君、きみの絵はどう見ても才能があるとは思えないから、画家になろうなどという夢はあきらめた方が良い、という進路指導をしたんですよ」と言って、皮肉っぽい笑いをみせた。
「そうですか。ぼくの場合は、小学の時、写生の時間に、紅葉しているドウダンツツジの垣根に感動して様々な赤でそのドウダンの紅葉を表現したのですけど、その赤色が溢れているのが下品だといわれましてね...
どうしても、自分が見ている目もくらむほど美しいドウダンの赤が表現出来なくて...
それで、いろいろな赤色を調合して塗っていて、油絵のようになってしまい...
授業時間切れで教室に持ち帰ったのですけどね。
水彩画にはふさわしくない、赤色絵の具の厚塗りでしたから...」
「そういう先生は、柿右衛門の絵だって下品だというはずだよ」と、立石さんは言った。
「俳画じゃあるまいし。ちょっとしゃれたセンスの良い絵にだけ良い点をつける女の先生でした...」
同じ話を伊藤雄人画伯に話すと、「絵というと印象派の絵しか思い浮かばない日本人がほとんどだからね」と、我が国の文化的貧困を皮肉った。
後日、集落地区の集まりがあって、酒席の時に長老の一人が「立石さんの絵って、うまいんかね?下手なんかね?俺には、何が良いんだか、わかんネーけど」というような発言をしたことがある。
馬の耳に聴かせる念仏などありはしないだろう。
その2
マロニエの並木が立ち並ぶ坂道を上り詰めると、現代彫刻家である飯田善国さんのお宅が見えてきた。
玄関から応接間にいたるエントランスに、ピカピカに光る金属製のオブジェがカラフルな組紐でつながれた作品がお客を誘導してくれる。
飯田善国さんはミラー・モビールに代表される金属製の巨大なモニュメントを制作する作風で、風で動く大がかりなモニュメントなど有名だった。
故郷の足利市の思い出話になると、飯田さんは「石もて追われるように、故郷を出てきた」という話を、いささかの憤慨を込めて語り、栃木県は首都圏と東北の間の文化の渡り廊下に過ぎない、と表現した。
わたしたちはその故郷の代表団のような形で訪問させていただいたのだが、団の偉い方が帰り際にエントランスに並ぶオブジェと紐の作品を指さして、
「これは、しゃれた手すりですね」とご愛想を言ったのだった。(参考画像)
飯田さんの後期の作品に見られるステンレスの柱と色とりどりの紐は、「クロマトフィロロギア(色彩言語学的方法)」と呼ばれる詩と彫刻を組み合わせた深い意味を持つ作品なのだ。
アルチュール・ランボーの『地獄の季節』にあるように、色彩と言葉を対応させた、色彩語によるメッセージ性を含む造形なのだ。
私は母音の色を発明した
Aは黒、Eは白、Iは赤、Uは緑、Oは青、母音たちよ
郷里で理解されずに追われるように飛び出して、いまや現代モニュメントの大家として知られる彫刻家を表敬訪問したというのに、展示してある作品をこともあろうに「手すりだ」と...。
渡り廊下を土足で歩く野蛮人の一員であることにいたたまれなくなった。
人参の絵など無用の長物、馬を走らせるのは人参そのものだ、ってか?
単純な人間が単純なことを大声で主張することは、ばかばかしいほど力強いよね。
...内容は空疎だけど。
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