昨日、上野の森美術館で「聖地チベット」- ポタラ宮と天空の至宝 - 展をみてきました。
改めて「チベット的やり過ぎ」を感じましたが、そのやり過ぎの美の極致が表題にある観音像なのだろう。
改めて「チベット的やり過ぎ」を感じましたが、そのやり過ぎの美の極致が表題にある観音像なのだろう。
「十一面千手千眼観音菩薩立像」

我が国にも千手(せんじゅ)観音はいろいろありますけれど、これほど徹底的に手を並べたものは多分ないかと思う。千手の由来は仏教でいう25世界に40本の手で対応するので、1000本+胸の前で合掌する2本の手で1002手だとされる。
なので、我が国の千手観音は42手観音として造像されるのが一般的です。しかるにチベットでは...
このやり過ぎ感がチベット的だと感じる。
前に、「作品(12) シヴァ・ダンスを諫めるヴィシュヌ」で、次のように書きました。
宇宙を焼き尽くすシヴァよ お前には生を計るべき手が足りない
すなわちあらゆる生にふれ、右手に渡すのか左手に渡すのか分別すべき360本の手が
この観音様はヒンドゥーの女神ドゥルガーに由来しており、シヴァ神の妻カーリー神は、このドゥルガー神の額から生まれた、とされています。だとすれば、シヴァ神はカーリーと一対で、破壊・救済・創造を全うできるということになる。
千手観音は「これならどうだ。文句ないだろう」という感じですね。
わたし的にいうならば、上座仏教の意味的リアリズムなのだと。
インドではこのような形の造像はみられないようです。
形は決してリアリズムではありません。
大乗仏教的な考えからいえば両手があればそれでいいわけです。
みんなまとめて済度するぞということですから。
上座仏教ではそれぞれの修行の程度により序列のような順位意識が生じますから、オレも救われたいワタシも救われたいという声が殺到することになる。
その殺到に対応するためには、より多くの顔を持ち、あたうる限りのまなざしと救いの手を現す必要がある。
その結果が、この「十一面千手千眼観音菩薩立像」の形になったわけでしょう。
大衆のもつ願望や欲望がリアルに見て取れる、ということで意味的なリアリズムなのだ。
明治時代に、まだ鎖国中だったチベットに密入国した川口慧海は、チベット人のお祈りを聞いて仰天します。
そのチベット人は山賊らしく「自分はこれまで多くの人の命をあやめましたが、これからもさらに旅人を襲い殺して金品を奪うことになるので、よろしくお願いいたします」ということを祈っているのだという。
そのような欲望に満ちた願望のお祈りですから、一回お祈りしただけですむという気はしないだろう。
だから、タルチョ(タルチョー)という小旗に経文を印刷して、風になびかせることで、経文を読んだことにする。風の強いチベットでは、四六時中経文が風に乗るわけです。
また、マニ車というのは表面には真言マントラが刻まれて、中には経文が納められており、一回転するとお経とマントラを一回唱えたことになる。これを手でガラガラと回せば、何度も何度も唱えたことになる。
チベットで自動車を販売するなら、エンジンルームにマニ車を備え、ボンネットにはミニ・タルチョをなびかせるポールをセットすると売れるのではないかな。
欲望も願望もノーリミットなのだけれども、厳しい自然環境がおのずから生活のあり方を制限している。そのバランスの上で、成り立っているのがチベット仏教だといってよい。
その過剰性に対応した型がこの「十一面千手千眼観音菩薩立像」なのだということですね。
幻想絵画や彫刻でもないし、表現主義でもない、意味的なリアリズムだというほかない仏像です。
収穫のあったチベット展でしたね。
我が国にも千手(せんじゅ)観音はいろいろありますけれど、これほど徹底的に手を並べたものは多分ないかと思う。千手の由来は仏教でいう25世界に40本の手で対応するので、1000本+胸の前で合掌する2本の手で1002手だとされる。
なので、我が国の千手観音は42手観音として造像されるのが一般的です。しかるにチベットでは...
このやり過ぎ感がチベット的だと感じる。
前に、「作品(12) シヴァ・ダンスを諫めるヴィシュヌ」で、次のように書きました。
宇宙を焼き尽くすシヴァよ お前には生を計るべき手が足りない
すなわちあらゆる生にふれ、右手に渡すのか左手に渡すのか分別すべき360本の手が
この観音様はヒンドゥーの女神ドゥルガーに由来しており、シヴァ神の妻カーリー神は、このドゥルガー神の額から生まれた、とされています。だとすれば、シヴァ神はカーリーと一対で、破壊・救済・創造を全うできるということになる。
千手観音は「これならどうだ。文句ないだろう」という感じですね。
わたし的にいうならば、上座仏教の意味的リアリズムなのだと。
インドではこのような形の造像はみられないようです。
形は決してリアリズムではありません。
大乗仏教的な考えからいえば両手があればそれでいいわけです。
みんなまとめて済度するぞということですから。
上座仏教ではそれぞれの修行の程度により序列のような順位意識が生じますから、オレも救われたいワタシも救われたいという声が殺到することになる。
その殺到に対応するためには、より多くの顔を持ち、あたうる限りのまなざしと救いの手を現す必要がある。
その結果が、この「十一面千手千眼観音菩薩立像」の形になったわけでしょう。
大衆のもつ願望や欲望がリアルに見て取れる、ということで意味的なリアリズムなのだ。
明治時代に、まだ鎖国中だったチベットに密入国した川口慧海は、チベット人のお祈りを聞いて仰天します。
そのチベット人は山賊らしく「自分はこれまで多くの人の命をあやめましたが、これからもさらに旅人を襲い殺して金品を奪うことになるので、よろしくお願いいたします」ということを祈っているのだという。
そのような欲望に満ちた願望のお祈りですから、一回お祈りしただけですむという気はしないだろう。
だから、タルチョ(タルチョー)という小旗に経文を印刷して、風になびかせることで、経文を読んだことにする。風の強いチベットでは、四六時中経文が風に乗るわけです。
また、マニ車というのは表面には真言マントラが刻まれて、中には経文が納められており、一回転するとお経とマントラを一回唱えたことになる。これを手でガラガラと回せば、何度も何度も唱えたことになる。
チベットで自動車を販売するなら、エンジンルームにマニ車を備え、ボンネットにはミニ・タルチョをなびかせるポールをセットすると売れるのではないかな。
欲望も願望もノーリミットなのだけれども、厳しい自然環境がおのずから生活のあり方を制限している。そのバランスの上で、成り立っているのがチベット仏教だといってよい。
その過剰性に対応した型がこの「十一面千手千眼観音菩薩立像」なのだということですね。
幻想絵画や彫刻でもないし、表現主義でもない、意味的なリアリズムだというほかない仏像です。
収穫のあったチベット展でしたね。
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