時々、絵画鑑賞についての検索がありますので、このサイトが誤解を与えないように、若干の説明をしておくべきかと思います。
とくに、今やっている伊藤画伯とのジュガルバンディーは鑑賞的な態度ではなく、恣意的なイメージ想像(イルージョン)と詩的創造というものですので、遊びとしてはおもしろいのですが、鑑賞とはいえません。
とくに、今やっている伊藤画伯とのジュガルバンディーは鑑賞的な態度ではなく、恣意的なイメージ想像(イルージョン)と詩的創造というものですので、遊びとしてはおもしろいのですが、鑑賞とはいえません。
伊藤さんの絵はいわゆる具象画ではなく、かといって抽象画ともいえません。
あえていえば、非具象絵画ですね。
具象画も、具象を抽象化した抽象画も、何かを描写していますけれども、
非具象画というのは、端的にいってしまえば何ものをも描写していない、といってよいでしょう。
描写はしていないけれども、何かを表現している、ということになる。
けれども、画家によって、何かを描写しているのだ、と考えておられるかもしれません。
そして、受け手は時に、写真のようなリアリズムの中にさえ表現者の叙情性を見いだすかもしれない。
ですから、このような分類自体があくまでも便宜的なものであり、鑑賞する立場からいえば意味のないことなのだ、と。
アルベルト・ジャコメッテは、ある夕食(彼の夕食は、たいがい午後10時過ぎの深夜から)の時、パートナーであるアネットの顔をジッと見つめた。
アネットは「どうしてそんなに熱心に私を見つめるの?」といぶかしく思う。というのは、この日午後から(というのは、朝食の後、アトリエに戻ってから)ずっとジャコメッティのために(モデルとして)ポーズをとってきていたから。
そして、ジャコメッティは応える。「今日は、初めて君を見たから...」
!恐いよね。妻のアネットがモデルをしている間、ジャコメッティはアネットをずっとドローイング的認識の対象としてしか見ておらず、生きて呼吸をして、生活の中でジャコメッティを愛している妻とか、そういう感覚や感情は全く持っていなかった、ということなのだろう。
でも、ジャコメッティにいわせれば、毎日毎日前の日よりも良く見えるように感じる」という果てしのない営為のただ中のことなのだ。
一人の人間の、一つの創作過程においても、一期一会のような創造的非連続がある。
それが、別の作品だったなら、全く別な世界がそこにあるはずなのだろう。
まして、別の人の作品であるなら、全く、全く別な世界が描かれているのは当たり前といえば当たり前。同じような見方など成立するはずがない、と考えた方がよいのだと思う。
具象画、抽象画、非具象画などという極めて大ざっぱな分類とかで鑑賞法を決めることなど、できるはずがない。
鑑賞者は自分の視覚を中心とした五感を総動員して、全く初めて見るもの、あるいは未知の世界を覗くように作品と向かい合わねばいけないのだと思う。少なく とも、作家の数だけ異なった見方が必要になるし、その一人の作家でも時期によっていくつもの異なる作風が見いだせるだろう。
なにしろ、ジャコメッティなどは、何日もかけて苦闘してきた未完成作品を、次の日には何のためらいもなく壊して、ゼロからやり直すのが日常茶飯事なのだから。
新しい見方ができるようになった、と作り直す。
一つの作品の中に、何十回となく更新された視覚の歴史がそこにあるわけです。
とはいえ、それは理想論であり、そのような見方ができる人はすでに画家なり彫刻家として生きているはずですけどね。
ともかく、鑑賞はあらゆる先入見をすてて、一期一会のような気持ちで、自分の膂力のすべてをかけて無心で「見る」しかない。
私の場合は、イリュージョン派ですから、勝手に幻視してしまうというところがあります。
つい先日も、トイレの中でタイルと白壁を区切っている腰高位置に張り巡らされた横桟の木目に想像力が刺激されてしまいました。
横に置いてある木ですから、うねる木目が横に流れ、荒れる波のように見えたり、
谷に当たる部分をみていると冬山の谷筋を登高していて下から頂上方面を見上げたときのようなパノラミックな風景に見えたり...
その一部に現れた木のシミの部分が左横を向いて何かを叫んでいる美しい女性の顔に見えたり、じっと見ていると、こちらを見ているようにも見えてくる...

あるいは、ピッコロ大魔王がこちらを見ているようにも見えたり。刻々変わるのがイルージョンたるところ。

私は、とうとうカメラと三脚を持ってきて、その時と同じ視点を探し出してカメラを据えて、何枚も写真を撮ったのですが、私がつい先ほど見たようには写らない。
夕暮れ時で、光がどんどん変化するということもあったかと思う。
長時間トイレのドアを開け放って作業をしていたらしい。
年とともに変に集中力がつきすぎて、というか「若さゆえに他のことに惹かれる」という度合いが少なくなって元来の熱中癖に歯止めがかからなくなったのか、はっと気づくとカメラのピントが合わなくなるほど暗くなっていた。
人の視覚というのは、実に選択的にものを見ていることがよくわかる。
そのうえ、個人的なイマジネーションが勝手にオーバーラップしてきて、
「余計な意味性」を感じたりするものだ。
たとえば、私がジャコメッティの『広場を歩く人』に衝撃を受けたのは、極めて個人的なイリュージョンを感じてしまったからです。
残念ながら、画像がありませんので、別の画像を参考にアップしておきます。 [ 街の広場 ]
「広場を歩く人」(広場の記憶違い?)は、街の広場を思い思いに歩く人々の姿が表現されていますが、同じように首から上の人が地面から生えてきたような姿で見られます。
この広場シリーズはジャコメッティのレアリテ体験の一つで、父に連れられて初めてイタリアを訪れたとき、夜のヴェネツィアで前を歩いている三人の女性が急に大きく見えた、という感覚が表現されているようです。見上げるような感覚なのでしょうか。
このタイプの彫刻を見て、私は子供の頃にイメージした自分の死後の世界を連想してしまったのです。
小学生の頃、自分は死んでしまったら永遠にこの世界・この現実・この日常の生活から切り離されて二度と戻ってこれないのだ、という空恐ろしい無限の時間感覚におののいていました。
子供ながらのイメージは、よく遊んだ街の中心にある神社前の石畳の広場です。
私は死んで、地面の中、石畳のすぐ下にいて、その上を歩いている人と出会いたいのだけれど、永遠に出会えず、声もかけられず、絶対的に別の世界に隔絶されて永遠の時間を閉ざされ続ける。
長い長い人類史の中で、ほんの一瞬としかいえない命を自分は生きていて、あとは縁もゆかりもない「自分がいない世界」が茫漠としてあるのだ、という目の前の深淵。
私は、広場を歩いている人の足を、亡霊のように手を伸ばしてつかんでコミュニケーションを図りたい!
そういった「永遠のもどかしさ」に苛まれる、という恐ろしいイメージを抱いていました。
このような過去の強烈な記憶があるために、初めてジャコメッティのこの彫刻を見たときに、そのイメージと重複してしまい、ぞっとする衝撃を受けたわけで す。
自分が彫刻家なら、まさにこういうイメージを制作していたかもしれない、というわたし的イルージョンのレアリテ体験ですね。
ですから、わたしの場合は、我田引水的に自分の方に引きつけてしまうものですから、客観的とはいえないですね。そもそも、五感そのものが個性的であり、客観的ではないのでしょう。
それで、1976年に書いた『こころの遠近法』は、明瞭にジャコメッティの絵を見て衝撃を受けた影響が見て取れると思う。
ジャコメッティの「歩く三人の男」は、それ以前に読んでいた実存哲学者キルケゴールの語る「絶望・不安・孤独」というものが、まさにこの彫刻の中に見えると感じた。
ジャコメッティを我田引水的に語り始めると、きりがなくなる。
あえていえば、非具象絵画ですね。
具象画も、具象を抽象化した抽象画も、何かを描写していますけれども、
非具象画というのは、端的にいってしまえば何ものをも描写していない、といってよいでしょう。
描写はしていないけれども、何かを表現している、ということになる。
けれども、画家によって、何かを描写しているのだ、と考えておられるかもしれません。
そして、受け手は時に、写真のようなリアリズムの中にさえ表現者の叙情性を見いだすかもしれない。
ですから、このような分類自体があくまでも便宜的なものであり、鑑賞する立場からいえば意味のないことなのだ、と。
アルベルト・ジャコメッテは、ある夕食(彼の夕食は、たいがい午後10時過ぎの深夜から)の時、パートナーであるアネットの顔をジッと見つめた。
アネットは「どうしてそんなに熱心に私を見つめるの?」といぶかしく思う。というのは、この日午後から(というのは、朝食の後、アトリエに戻ってから)ずっとジャコメッティのために(モデルとして)ポーズをとってきていたから。
そして、ジャコメッティは応える。「今日は、初めて君を見たから...」
!恐いよね。妻のアネットがモデルをしている間、ジャコメッティはアネットをずっとドローイング的認識の対象としてしか見ておらず、生きて呼吸をして、生活の中でジャコメッティを愛している妻とか、そういう感覚や感情は全く持っていなかった、ということなのだろう。
でも、ジャコメッティにいわせれば、毎日毎日前の日よりも良く見えるように感じる」という果てしのない営為のただ中のことなのだ。
一人の人間の、一つの創作過程においても、一期一会のような創造的非連続がある。
それが、別の作品だったなら、全く別な世界がそこにあるはずなのだろう。
まして、別の人の作品であるなら、全く、全く別な世界が描かれているのは当たり前といえば当たり前。同じような見方など成立するはずがない、と考えた方がよいのだと思う。
具象画、抽象画、非具象画などという極めて大ざっぱな分類とかで鑑賞法を決めることなど、できるはずがない。
鑑賞者は自分の視覚を中心とした五感を総動員して、全く初めて見るもの、あるいは未知の世界を覗くように作品と向かい合わねばいけないのだと思う。少なく とも、作家の数だけ異なった見方が必要になるし、その一人の作家でも時期によっていくつもの異なる作風が見いだせるだろう。
なにしろ、ジャコメッティなどは、何日もかけて苦闘してきた未完成作品を、次の日には何のためらいもなく壊して、ゼロからやり直すのが日常茶飯事なのだから。
新しい見方ができるようになった、と作り直す。
一つの作品の中に、何十回となく更新された視覚の歴史がそこにあるわけです。
とはいえ、それは理想論であり、そのような見方ができる人はすでに画家なり彫刻家として生きているはずですけどね。
ともかく、鑑賞はあらゆる先入見をすてて、一期一会のような気持ちで、自分の膂力のすべてをかけて無心で「見る」しかない。
私の場合は、イリュージョン派ですから、勝手に幻視してしまうというところがあります。
つい先日も、トイレの中でタイルと白壁を区切っている腰高位置に張り巡らされた横桟の木目に想像力が刺激されてしまいました。
谷に当たる部分をみていると冬山の谷筋を登高していて下から頂上方面を見上げたときのようなパノラミックな風景に見えたり...
その一部に現れた木のシミの部分が左横を向いて何かを叫んでいる美しい女性の顔に見えたり、じっと見ていると、こちらを見ているようにも見えてくる...

あるいは、ピッコロ大魔王がこちらを見ているようにも見えたり。刻々変わるのがイルージョンたるところ。
私は、とうとうカメラと三脚を持ってきて、その時と同じ視点を探し出してカメラを据えて、何枚も写真を撮ったのですが、私がつい先ほど見たようには写らない。
夕暮れ時で、光がどんどん変化するということもあったかと思う。
長時間トイレのドアを開け放って作業をしていたらしい。
年とともに変に集中力がつきすぎて、というか「若さゆえに他のことに惹かれる」という度合いが少なくなって元来の熱中癖に歯止めがかからなくなったのか、はっと気づくとカメラのピントが合わなくなるほど暗くなっていた。
人の視覚というのは、実に選択的にものを見ていることがよくわかる。
そのうえ、個人的なイマジネーションが勝手にオーバーラップしてきて、
「余計な意味性」を感じたりするものだ。
たとえば、私がジャコメッティの『広場を歩く人』に衝撃を受けたのは、極めて個人的なイリュージョンを感じてしまったからです。
残念ながら、画像がありませんので、別の画像を参考にアップしておきます。 [ 街の広場 ]
この広場シリーズはジャコメッティのレアリテ体験の一つで、父に連れられて初めてイタリアを訪れたとき、夜のヴェネツィアで前を歩いている三人の女性が急に大きく見えた、という感覚が表現されているようです。見上げるような感覚なのでしょうか。
このタイプの彫刻を見て、私は子供の頃にイメージした自分の死後の世界を連想してしまったのです。
小学生の頃、自分は死んでしまったら永遠にこの世界・この現実・この日常の生活から切り離されて二度と戻ってこれないのだ、という空恐ろしい無限の時間感覚におののいていました。
子供ながらのイメージは、よく遊んだ街の中心にある神社前の石畳の広場です。
私は死んで、地面の中、石畳のすぐ下にいて、その上を歩いている人と出会いたいのだけれど、永遠に出会えず、声もかけられず、絶対的に別の世界に隔絶されて永遠の時間を閉ざされ続ける。
長い長い人類史の中で、ほんの一瞬としかいえない命を自分は生きていて、あとは縁もゆかりもない「自分がいない世界」が茫漠としてあるのだ、という目の前の深淵。
私は、広場を歩いている人の足を、亡霊のように手を伸ばしてつかんでコミュニケーションを図りたい!
そういった「永遠のもどかしさ」に苛まれる、という恐ろしいイメージを抱いていました。
このような過去の強烈な記憶があるために、初めてジャコメッティのこの彫刻を見たときに、そのイメージと重複してしまい、ぞっとする衝撃を受けたわけで す。
自分が彫刻家なら、まさにこういうイメージを制作していたかもしれない、というわたし的イルージョンのレアリテ体験ですね。
ですから、わたしの場合は、我田引水的に自分の方に引きつけてしまうものですから、客観的とはいえないですね。そもそも、五感そのものが個性的であり、客観的ではないのでしょう。
それで、1976年に書いた『こころの遠近法』は、明瞭にジャコメッティの絵を見て衝撃を受けた影響が見て取れると思う。
ジャコメッティの「歩く三人の男」は、それ以前に読んでいた実存哲学者キルケゴールの語る「絶望・不安・孤独」というものが、まさにこの彫刻の中に見えると感じた。
ジャコメッティを我田引水的に語り始めると、きりがなくなる。
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