ジャコメッティの視覚について取り上げたのは、藤林叡三の絵について書くための布石だったのですが、門外漢の甘さで、おいそれと通過していくことが許されない状態です。
自分の感覚で受け止めたものだけに限定して述べるのであれば、少しは荷が軽くなるのでしょうが、独善に陥らず共通認識を前提において話を進めたいと考えると、大変な作業となる。
自分の感覚で受け止めたものだけに限定して述べるのであれば、少しは荷が軽くなるのでしょうが、独善に陥らず共通認識を前提において話を進めたいと考えると、大変な作業となる。
ジャコメッティの視覚についてはサルトルとメルロ・ポンティが論考を書いており、学生時代に読んだのですが、どちらもいまは手元にはありません。
頭の中では両者の話が混ざり合ってしまっていますので、出典をあげて明示することができない。
それで再度メルロ・ポンティの『知覚の現象学』を買おうと調べてみると、第二巻が出ているようです。
仕方がないので、両方まとめて買うことにしましたが、ついでに『見えるものと見えないもの』と『目と精神』もカートに加えてしまいました。作品28「まなざし」を書きかけていて、メルロ・ポンティの著作を全部読みたくなったからです。
『見えるものと見えないもの』は7770円で、ラッキーセブンみたいですが、書評を読んでみると、
「寝る前に読むと、2分で寝れます。一年に1ページしか進みませんので、一生読むことができる...」とか。
ますます、時間がなくなる。それでなくとも、今日の昼間に本を大量購入してきたばかり。
そして、帰宅すると、千駄木画廊から「藤林叡三画集」も届いているし、まいったね。
伊藤画伯が藤林の絵について、もっと話をしたいということでしたが、私はまだ仮説を提示した段階で、検証をする必要があるからと、画廊に電話して画集をお送りいただいたわけです。
絵が届くまでにジャコメッティの記事を終える予定でしたが、アマゾンからメルロ・ポンティの本が送られてくるまでに記事をすませよう、とか...、無理だよね。
メリークリスマスも、紅白歌合戦も、お正月もぶっ飛んだな。確実に o( _ _ )o ガクッ!
でも、次いこー
ジャコメッティが述べているレアリテ体験というのは、いくつかあります。
(1)彼が18か19歳の頃に、父親のアトリエで梨を描いていて、梨がどんどん小さくなっていってしまったという。父は実物大に描き直して、改めてジャコメッティが描いていくと、半時間後には前とミリ単位で正確に同じサイズにちいさくなってしまう、という経験。
(2)父に随行してベネツィアに行き、パドーヴァの路上で、二、三人の女の子が目の前を歩いているときに、彼女たちが巨大に見えたという体験。大きさのあらゆる概念を超越しており、その動きには恐るべき暴力的な力が備わっており、目がくらむようだったという。
資生堂「花椿」CMの女優さんたちの躍動する後ろ姿など見ますと、野放図と感じるほどのエロス(生命の躍動)に私も目がくらみますけど...。
(3)それと同じ体験を、次の秋にはフィレンツェで、エジプトの胸像や、アッシジのチマブエの絵、そして少し後にローマの聖コスマス教会とダミアン教会のモザイクの中に見いだした。
それ以降、セザンヌのなかでジャコメッティを魅了したのも、それと同じ特質なのだという。
(4) モンパルナスの映画館での体験。突然、スクリーン上の人々やものは単なるしみ、意味のない白黒のしみになってしまった。(中略)私を取り巻いている現実は見知らぬもの、神秘的なものだった。
「私はまるであらゆる生き物が死にたえた全く未知の世界への敷居をまたぎ越したみたいに、恐怖のあまり叫び声をあげた。そしてこのことは、地下鉄のなかで、街路上で、レストランで、友人たちの眼の前で、しばし繰り返された。
「試論」を書いたメルセデス・マッターは、「ジャコメッティのシュルレアリスム体現が作品の表面に現れてきたのは、12年後の、この時だったのだと、私は信ずる」と記している。
ジャン・パゼーヌも「全く意識もしなかった過去の体験が、表現の中に不意に現れ、それを表現者に押しつけてくる」というようなことを述べています。
そのような解釈が妥当なのかどうかは判断がつきかねますが、誰もが同じだと誤解している視覚、ひいては五感のありようというのは個性的なのだなということだけは確かなようです。
(アルベルト・ジャコメッティ 「倒れる男」 ↓↓)

私はジャコメッティのように、空間の大きさと対象の相対的な大きさという感覚についてはそれほどのリアリティーを感じないのですが、これは延々とドローイングを続けた人でなければ分からない感覚なのだと思う。
ひとつだけ「あるある」と感じたことは、いざ描こうとすると対象が普段見ているものではなくなる、という感覚ですね。つまり、
「こ れが、私を驚かせることだ。つまり、最も取るに足らない頭部、最も暴力的でない、最も性格のはっきりしない頭部、最もしまりのない、精神的に欠陥ある状態 の頭部においてすら、もしも私がその頭部を素描しよう、描こう、というか、むしろ彫刻しようと意図し始めると、すべては張りつめた形態に変形するに至り、 そしてつねに、あたかも自分がそうであるところをつねに越えてしまう人物の形態みたいに、なかみの詰まった、極度の暴力性の形態に変形するにいたるのであ る。」
というところですね。
ただし、この記述はジャコメッティの成熟期(1946年から52年頃)の到達点であって、20代前半の私の視覚体験とは意味が全然違うものなのでしょう。
私もまた、絵を描いていた時期があって、人の顔を描くことがどうしてもできない、という悩みを抱えていました。
結局私は、何事にも天命のような意味を感じてしまう人間なので、絵も彫刻も不向きな人間なのだと、この世界を離れることになった。
ジャコメッティに引導を渡されたといってよい。そういうことがあるので、かれの視覚体験については、ひとかたならぬ好奇心を抱いているわけですね。
それで、作品とかは全く関係ないところで、ジャコメッティと似ているなと思うところをひとつ...

この乱雑さ!目的以外はどうでも良い、という感じの生活は、似ているなと...
これだけ。悲しい...
頭の中では両者の話が混ざり合ってしまっていますので、出典をあげて明示することができない。
それで再度メルロ・ポンティの『知覚の現象学』を買おうと調べてみると、第二巻が出ているようです。
仕方がないので、両方まとめて買うことにしましたが、ついでに『見えるものと見えないもの』と『目と精神』もカートに加えてしまいました。作品28「まなざし」を書きかけていて、メルロ・ポンティの著作を全部読みたくなったからです。
『見えるものと見えないもの』は7770円で、ラッキーセブンみたいですが、書評を読んでみると、
「寝る前に読むと、2分で寝れます。一年に1ページしか進みませんので、一生読むことができる...」とか。
ますます、時間がなくなる。それでなくとも、今日の昼間に本を大量購入してきたばかり。
そして、帰宅すると、千駄木画廊から「藤林叡三画集」も届いているし、まいったね。
伊藤画伯が藤林の絵について、もっと話をしたいということでしたが、私はまだ仮説を提示した段階で、検証をする必要があるからと、画廊に電話して画集をお送りいただいたわけです。
絵が届くまでにジャコメッティの記事を終える予定でしたが、アマゾンからメルロ・ポンティの本が送られてくるまでに記事をすませよう、とか...、無理だよね。
メリークリスマスも、紅白歌合戦も、お正月もぶっ飛んだな。確実に o( _ _ )o ガクッ!
でも、次いこー
ジャコメッティが述べているレアリテ体験というのは、いくつかあります。
(1)彼が18か19歳の頃に、父親のアトリエで梨を描いていて、梨がどんどん小さくなっていってしまったという。父は実物大に描き直して、改めてジャコメッティが描いていくと、半時間後には前とミリ単位で正確に同じサイズにちいさくなってしまう、という経験。
(2)父に随行してベネツィアに行き、パドーヴァの路上で、二、三人の女の子が目の前を歩いているときに、彼女たちが巨大に見えたという体験。大きさのあらゆる概念を超越しており、その動きには恐るべき暴力的な力が備わっており、目がくらむようだったという。
資生堂「花椿」CMの女優さんたちの躍動する後ろ姿など見ますと、野放図と感じるほどのエロス(生命の躍動)に私も目がくらみますけど...。
(3)それと同じ体験を、次の秋にはフィレンツェで、エジプトの胸像や、アッシジのチマブエの絵、そして少し後にローマの聖コスマス教会とダミアン教会のモザイクの中に見いだした。
それ以降、セザンヌのなかでジャコメッティを魅了したのも、それと同じ特質なのだという。
(4) モンパルナスの映画館での体験。突然、スクリーン上の人々やものは単なるしみ、意味のない白黒のしみになってしまった。(中略)私を取り巻いている現実は見知らぬもの、神秘的なものだった。
「私はまるであらゆる生き物が死にたえた全く未知の世界への敷居をまたぎ越したみたいに、恐怖のあまり叫び声をあげた。そしてこのことは、地下鉄のなかで、街路上で、レストランで、友人たちの眼の前で、しばし繰り返された。
「試論」を書いたメルセデス・マッターは、「ジャコメッティのシュルレアリスム体現が作品の表面に現れてきたのは、12年後の、この時だったのだと、私は信ずる」と記している。
ジャン・パゼーヌも「全く意識もしなかった過去の体験が、表現の中に不意に現れ、それを表現者に押しつけてくる」というようなことを述べています。
そのような解釈が妥当なのかどうかは判断がつきかねますが、誰もが同じだと誤解している視覚、ひいては五感のありようというのは個性的なのだなということだけは確かなようです。
(アルベルト・ジャコメッティ 「倒れる男」 ↓↓)
私はジャコメッティのように、空間の大きさと対象の相対的な大きさという感覚についてはそれほどのリアリティーを感じないのですが、これは延々とドローイングを続けた人でなければ分からない感覚なのだと思う。
ひとつだけ「あるある」と感じたことは、いざ描こうとすると対象が普段見ているものではなくなる、という感覚ですね。つまり、
「こ れが、私を驚かせることだ。つまり、最も取るに足らない頭部、最も暴力的でない、最も性格のはっきりしない頭部、最もしまりのない、精神的に欠陥ある状態 の頭部においてすら、もしも私がその頭部を素描しよう、描こう、というか、むしろ彫刻しようと意図し始めると、すべては張りつめた形態に変形するに至り、 そしてつねに、あたかも自分がそうであるところをつねに越えてしまう人物の形態みたいに、なかみの詰まった、極度の暴力性の形態に変形するにいたるのであ る。」
というところですね。
ただし、この記述はジャコメッティの成熟期(1946年から52年頃)の到達点であって、20代前半の私の視覚体験とは意味が全然違うものなのでしょう。
私もまた、絵を描いていた時期があって、人の顔を描くことがどうしてもできない、という悩みを抱えていました。
結局私は、何事にも天命のような意味を感じてしまう人間なので、絵も彫刻も不向きな人間なのだと、この世界を離れることになった。
ジャコメッティに引導を渡されたといってよい。そういうことがあるので、かれの視覚体験については、ひとかたならぬ好奇心を抱いているわけですね。
それで、作品とかは全く関係ないところで、ジャコメッティと似ているなと思うところをひとつ...

この乱雑さ!目的以外はどうでも良い、という感じの生活は、似ているなと...
これだけ。悲しい...
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