詩的リズム以前に、こころのリズムが

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 20代の頃の自作を探し出して、いくつか掲載させていただきましたが、若い頃はやはりこころが躍動していたなという感じがします。
 最初の詩集は若書きの恋愛詩が書き連ねてあって、恥ずかしくてとても読み返せません。
 二番目の詩集は表現性も磨かれ、体験に根ざしたそれだけの意味性もあり、バランスがよい詩が多かったと思いますが、どこかに散逸してしまいました。
 『古典力学』は、69年70年の挫折体験を、自分なりに検証して総括し、詩を書くことをやめた足跡ですので、そういうものがにじみ出ています。

 再び詩を書き始めて、わたしはほんとうに言葉を捨てて生きてきたのだなという感慨がありますね。
 昔書いたことをすっかり忘れていて、こんな事を書いていたのだなと...

 けれども、読んでいて「これは紛れもなく、自分の詩だ」という、こころのエネルギーみたいなものは感じられます。
 現在のわたしは74年に書いた『双頭のカリアティード』ほどの内発的なモチベーションもエネルギーも持ち得ないし、表現的にも詩ではなく散文的になっている。

 石川ひとみの「ひとりぼっちのサーカス」(三浦徳子)について、なぜあんあに長々といらぬ分析を加えたのかといえば、35年も前にこのような詩を書いていたからなのだな、と今になって気づきました。

 一篇の詩、あるいは歌詞、さらには普段の何気ない言葉にさえも、その人の過去からの全存在がかぶさっているのだな、と再認識しましたね。

  それで、この絵画と詩のコラボですけれど、イメージの引き出しはいくらでもあるのですが、自分の表現として定着させていくのには時間がかかるなと感じてい ます。35年も言葉を捨てて来ましたので、経験や知識は豊かになったけれども言葉が貧弱にやせ細っている、という感じです。


 先日、テレビで世界的バイオリニスト宮本笑里の番組を見ましたが、一日16時間の練習を毎日欠かさないストイックなまでの日々を送っているとか。プロフェッショナルだなと感心しました。
 一日休めば三日の遅れ、というのが修練の常識ですから、35年間も判断停止をしていたわたしは、リハビリをやらなければいけない状況だなと痛感しています。

 それと、もう一つ大切なことは、20代と現在とではこころのリズムが違っているということです。
 これは、七五調などの言葉のリズムというものではなく、それ以前の精神的な励起のあり方が異なるからだと。社会や家庭生活など、喜怒哀楽を抑えつけてきた習慣が身に染みついているからでしょうね。

 ですので、残りのジュガルバンディーについては、滑舌のリハビリをしながら拙速を避けて進めていきたいと思います。いくつかは、古い詩を引き合いに出してきたりしますが、ごく一部分を校正する形でフィットさせるということもあります。

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このページは、小林由典が2009年11月21日 11:47に書いたブログ記事です。

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