個的な問題から普遍的課題への迷い道(3)

「表現自体が一人歩きする」という話に私は異議をとなえましたが、谷川俊太郎がこの問題を論じています。 「日本語共同体」という読者像。谷川の論に耳傾けてみよう。

 以下は、論旨が明確になるように私が要約したものです。
 (原文は『詩を考える』(詩の森文庫)「詩の現場がどこかにあるはずだ」)

 「書かれてしまった詩作品が詩人を離れて存在するとは、それが必然的に他者との関係に入るということだろう。作者を離れて詩作品が自立を始めるのではない、それはすべての日本語をその文脈として新しく行きはじめる。あるいは死にはじめる。

 今さら言うまでもないが、詩はむしろ詩作品と読者との関係にひそんでいるはずである。しかもその読者とは、特定の一個人ではなく、日本語共同体そのものと言っていい。

 詩人-詩作品-読者という場で、一連の日本語が詩として成立しているのか、していないのかという、いわば現場検証が必要なのだ。

 詩人自身をもその一員とする読者=日本語共同体という他者が、その存在をあらわしてこざるを得ない。」

 谷川がどういう詩を書いており、詩についてどう考えているかを踏まえていないと、この文の正確な意図はつかめないかと思いますが、「読者の数だけ誤解がある」などとうそぶいてそれで終わりにしてはいけない、ということです。

 谷川は「日本語共同体という他者」を想定しているわけで、理想的にはそうなのだけれども、やはりないものねだりになるのかもしれない。

 「が、たとえば近ごろ流行のいわゆる自作朗読の現場で、希にではあるが、私は私の詩の<結果>とも呼べるものにふれ得たと感ずる瞬間がある。
  もしかするとそれは肉声というもののひき起こす単なる興奮に過ぎぬかもしれないが、もしかするとそこに束の間、<詩>が成立し得ているのかもしれない。」

 詩の朗読会に参加する人は何らかの形で詩に関わっているか、その詩人のファンなのでしょう。
 一定程度以上の日本語の素養と詩の理解力を持っている人たちだろうと想定すれば、ごく限られた人たちだと思う。

 それ以外の99.9999%の人には縁のない世界といってよい。残念ながら、それが実情だ。

 他方で、朗読することを前提につくられた詩もあるけれど、そういうものを前提とせずにつくられた詩もある。

 吉本隆明は前出の論考の中で、次のように述べている。

「私たちは、詩をかくという意識状態がある緊張した放出状態のつづきであることを体験的にしっている。これは、いわば意識をたえず叫びの状態でみたし、言葉をその状態でうら貼りしながら表出していることを意味している。

 私たちの詩が他人に読まれたとき、詩の意味や主題やモチーフがまるで通じないとしても、この放出した感じだけは伝わるはずだという希望をいだくのである。

 この時の充実感または放出感はわずかの間しか持続しない。再体験するには、自分の作品でさえ読み返さなければならないくらいである。」

 「芸術の価値は、意識の自己表出のインテグレーションにほかならないから、一定の理解力を持つ読者にとっては古典は死語の世界であると否とにかかわらず価値があるのである」
 「数学論文でさえ意識の自己表出にうら貼りされているから、詩としてよめるはずである」

 詩人であり知の巨人である吉本ですから、詩集という活字になった詩の抜け殻からも、表現者の言葉の励起状態を読み取ることは難しくはない、ということでしょうね。
 谷川が日本語共同体という他者との関係で詩が成立するというのに対して、吉本は詩が書かれた一連の日本語自体に詩が内包されている、と。

 ただし、吉本は「叫びの状態にある作者の意識で、言葉の裏貼りをする」と述べているので、決して記号言語学のような作者不在を前提にしているのではないことに留意する必要がある。

 詩を朗読することに詩本来の意味を見ている谷川と、朗読しない吉本との温度差があるけれども、この間にすべての詩人がひしめいているといってよい。
 吉増剛造の絶叫も、田村隆一の素っ気ない朗読も、その階調の中に収まっている。

 けれども、お二人が想定している読者像は相当に高いレベルで日本語の素養と詩の理解力を持った人でなければいけないだろう。

 私は活字離れが著しく進み、ましてや詩などほとんど読まれないという言葉の衰退を深刻に感じながら、活字だけの表現ではなく画像・映像あるいは音声・音を取り込むことができるクロスメデイアで表現を試みている。

 やってみると、活字だけあるいは音声だけよりも遙かに詩の表現として適しているなと思える。朗読会のような共同的熱気はそこには現出できないかもしれないが、朗読会とは比べものにならない多くの読者との交感は可能になる。

 しかし私が今もっとも考え込んでいることは、想像を絶するほど低下した日本人の日本語能力の低下なのだ。
 乱暴に言ってしまえば、現在の25歳の若者は四半世紀前の中学2年生程度の理解力も、持ってはいないように思える。

 女の子の使う形容詞は「かわいい」のひとことに集中して、ファッション誌などははそれに合わせて、
 「エロかわいい、大人かわいい、悪かわいい、キモかわいい、ブスかわいい、ブサかわいい、...」と。それがトレンドであり、ひとつの文化現象になっているので、個性剥奪義務教育を受けた子女たちは流行に相乗りすることでしか価値観を共有できないでいる。

 このような惨たる現状にあって、いかに詩あるいは詩的交感を成立させたらよいのか?

 私たちは否応なしに、
  ほとんど読者の存在しない「読み人知らず」の世界で、
  ほとんど死語を使った「詠み人知らず」に成り下がっていくだけではないか?

 批評家たちが「文学しているね」と揶揄するのは、まさのこの状態をさすのだろう。

 読者におもねず、読者に近づき、読者と交感し得る詩を成立させるにはどうしたらよいのか、今それが問われねばならないだろう。

 そのような問いかけは座の文学である伝統的詩歌を離れた、現代詩の出発時からあった、はずだとは思うけれども、すべては作品において語らしめよという「読み人知らず」ゆえに「詠み人知らず」の孤高の世界しか示されてはこなかったのだといってよい。

     「迷い道(4) 」に続く

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このページは、小林由典が2009年10月27日 20:05に書いた記事です。

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