個的な問題から普遍的課題への迷い道(2)

油絵という西洋的伝統世界で作品を生み出す場合と、日本語という言語に限定されている詩で作品を生み出す場合と、普遍という概念の受け止め方はやはり異なるだろう。

 私は「普遍」という上位概念ではなく、「間主観性とか共通感覚」という問題を語ろうとしたのだが、週末の居酒屋という喧噪の中では、細かなニュアンスを込めた話は伝わりにくい。いきおい、普遍という大文字の論議になっていってしまったのだね。

 伊藤画伯は普遍というもののひとつの例として、世界宗教であるキリスト教とその文化をあげた。 私は日本で生まれ育っていますから、西洋世界の宗教であるキリスト教とその文化については、最後は自分の理解の向こうにある、ということを言いました。表現の土壌が重要なのだ。

 申し上げたかったことは「他の文化的土俵では勝負できないのではないか?」ということですね。

 私の脳裏にあったのは、たとえば江戸時代のキリシタン絵画であり、佐伯雄三のモンパルナス・シリーズであった。前者は非西洋であり、後者は帰国して後精彩を失っていった経緯がある。

 日本人であるわたしに染みこんでいる日本文化は、例えば部屋の広さは8畳で、窓の幅は1軒、障子の高さは6尺で、庭の広さは何坪だと。曲尺は尺分とcm 表示が表裏となっている。
 仏壇に向かっては三礼(さんらい)をするし、神社にあっては二拝二拍一拝とか、商売人は店の入り口に盛り塩をしたり、云々の事柄が精神的に染みこんでいるわけです。

 それで、ちょっと比較してみると、今日では廃れてしまった作法にすぎないのですが、
 我が国の文化では食事をする時には合掌して、生きていくために他の生を頂くことの許しを請う。

 けれども、キリスト教では両手を組み合わせるし、神が分け与えてくれた食物に感謝する。
 牛や豚は人間の食物として、神が分け与えてくれたものだと...

 わたしの思考は、こういったキリスト教的西洋文化の入り口段階で逡巡し、そこから先に行くことができない。文化的背景の違いは決定的なものだと思う。

 入り口に入ることさえできない西欧世界の普遍性というものを追求しても、いかほどのところに到達できるのかはなはだ心許ないのではないか、と思ってしまう。
 森有礼のように日常語をフランス語でしゃべり、フランス人と結婚し、フランスの絵画や哲学を論じている人間でも、フランス人にはなり得ないだろうとしか思えない。

 在日朝鮮人のとくに二世や三世など日本で生まれ育った人たちが、日本人ではない、かといって朝鮮人でもない、という精神的な無国籍感というものが払拭できないのと同じではないかという気がする。

 宗教の宗とは、「おおもと」つまり根源的な思想という意味だ。

 大学では教養科目の一つに宗教学を選択しましたけれども、あくまでも「学」に過ぎない。
 私には路傍の石像に手を合わせる老婆ほどにも、信仰心がないといってよいだろう。そして、
 さらには仏教徒でもなく、それを「一東洋人が根源的な問いを以て突き詰めていった思想」だと、
 ...私は受け止めています。

 「根源的な問いを突き詰めていったもの」という由来は仏教だけではなく、他の宗教でも同じだろう。
 そのような本質を持っていればこそ、普遍性を獲得し得ているのだといってよい。

 前回、わたしは本展の諸作品を見て、
 
 この人はなぜ絵を描き続けているのだろう?
 この人はなぜこのような描き方をするのか?

 ...ということを口にしましたけれど、

 そのような根源的な問いを自らに発し、
 その答えを自分の表現で提示していく、

 ...という他に普遍に至る道はないのだと思う。

 普遍という言葉は大げさに感じるので、社会性、さらには共感と、範囲を狭めていってもかまわない。
 個人と社会、あるいは、個と社会性という方が、より等身大で身近な問題になるかと思う。

 これを詩についていうならば、あなたは何故詩を書くのか?という問いかけになる。

 谷川俊太郎は、次のように「詩人とコスモス」という文の中で書いている。

 「何故あなたは詩をつくるか」という問いは、
  詩人、楽しみに詩をつくる人ではなく、
  自分の人間としての仕事として詩をつくることを選んだ本当の詩人にとっては、
  何故あなたは生きているのか、という問いと変わらないとぼくは思う。

  その先ず第一の答は、そうしたいから、という答であり、
  その次の答は、そうしなければならないから、という答だ。
  (中略)

  前者は詩人の宇宙的(コスミック)な生命のあらわれであり、
  後者は詩人の社会的(ソシアル)な人間のあらわれであると考えていいとぼくは思う。」
 
 詩人というのを画家と言い換えてもそのまま通じるかと思う。

 谷川は別のところでも、詩を書くことの意味について述べている。それは生活そのものだ、と。

「 詩人は一篇のすぐれた詩を得るために一生を苦吟して過ごすのではない、
  彼も常人と変わることなく、その一生を生活してすごすのだ。彼が詩を書こうとする時、
  彼は一篇のすぐれた詩、などという抽象的な観念のために書くのではない筈だ、
  彼はただ、生活しようとしているのである。
  その詩を書くことで人々とむすばれ、できれば一日の生活の資を得たいと願っているのである。」

 吉本隆明も、同様のことを「詩とはなにか」の中で述べている。

「マルティン・ハイデッガーは『ヘルダーリンと詩の本質』の中でつぎのようにいう。

 人間の現存在はその根底において「詩人的」である。(中略)
   それは現存在が建設されたもの(根拠づけられたもの)として
   何らのいさをし(功し=功、勲)ではなく賜物であるの謂(いわれ)である。

   詩は歴史を担う根拠でありそれ故にまた
   単なる文化現象とかましてや
   「文化精神」の単なる「表現」などではない。

 これをやさしく翻訳すれば、現存する社会に、詩人として、いいかえれば
 言うべき本当のことをもって生きるということは、本質的にいえば
 個々の詩人の恣意ではなく、
 人間の社会における存在の仕方の本質に由来するものだ、
 ...ということになる。

 これを、わたしのかんがえにひきよせて云いかえれば、
 わたしたちが現実の社会で、
 口に出せば全世界が凍ってしまうだろうほんとのことを持つ根拠は、
 人間の歴史とともに根ぶかい理由をもつものだ、ということに帰する。」

 吉本は、さらに、
 「詩をかかない多くの人々(生活者)は、本当のことを口に出せば、この世界は凍ってしまうという妄想を、それぞれの仕方で実生活のうえで処理している」
 ...と述べている。

 二人とも、詩を書くことと生活とは、等価であると考えているわけだね。
 この毎日の生活こそ、社会性の基盤なのだと私は思う。

 仕事も含めて、日常的な繰り返しでつまらないと思う生活は仮の姿であり、
 一人に戻った時の自分は詩を書いている人間なのだ、

 ...という姿勢からは社会性は生まれてこない。
 ...このへんを勘違いしている「自称詩人」という人は、少なくないのだなァ。

      (「迷い道(3) 」に続く)

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このページは、小林由典が2009年10月25日 20:03に書いた記事です。

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