マックス・エルンストの『ナイチンゲールに脅かされる二人の子供』は、ある種の内面的障害を持つ人の<絵画療法>というような趣をもつ。絵画による自己開示、あるいは救済。
昨日の「美の巨人たち」(12CH)でマックス・エルンストの「Two Children Are Threatend by a Nicingale」 『ナイチンゲールに脅かされる二人の子供』についてが取り上げられていた。
Max Ernst. (French, born Germany. 1891.04.02-1976.04.01)
エルンストは見ることが大好きな少年だったといいます。
彼は、板壁の木目をじっと見つめているとそれが様々な形に見えてくるということから、雲を眺めては刻々変わる姿を連想し、壁などのシミとか光具合とか、いろいろなものに見ることを拡大していった、と。
何か、私の子供時代と似ているなと思います。子供は想像力が豊かですから、大なり小なりそういうことがあったのではないでしょうか。
私は板張りだったトイレに入ると、時間を忘れて木目に見入ったものです。
木目だけでなく、大きな石とか岩を様々な角度で見ていろいろ想像したり、河原の石に様々な人面石とか...。
そして、やはり雲は多くの子供の定番であるようで、想像がふくらむのを楽しんでいました。
当時は満足におもちゃなどない時代でしたから、親父が捨てたショートピースの空き箱を自動車に見立てて、砂山を登ったりという半分は想像力で補いながら、手に取るもの目につくものの多くが「本来のものでない表象を帯びて」遊びの道具となりました。
ですから、遊び散らかした新聞紙の上はいってみれば桂林の風景であったり、稲村ヶ崎の戦場であったり、魔の宮殿であったり...
私は子供の頃時たま熱を出しては保育園を休んだりしましたので、親が「世界のお話辞典」みたいな分厚く大きな本を買ってくれて、一人でそれを読んで日中を過ごすという事がよくありました。
鍵をかけるような家ではありませんでしたけれど、今で言う鍵っ子です。
それで、本好きになり保育園児の時にそれを繰り返し繰り返し読んでいたので、想像の源泉は尽きないほどのものを持っていました。
エルンストの場合は父親が日曜画家でしたから絵に馴染んでいったようですが、私は同じような世界から言葉で表現する世界に進んでいったわけです。
エルンストは飼っていたオレンジピンク色のインコ、ホルネボムが死んで呆然としている時に、妹のロニが生まれたことを知らされ、彼女がホルネボムの生を奪って生まれてきたという妄想にとらわれます。
自分の妹に対する、そしてその母親、父親に対する無意識の憎悪のようなものをエルンストは心密かに抱いていたようで、後に心理学に傾倒して自分の深層意識世界を理解しようと苦闘したようです。
私の次男も、超未熟児の月数で、白髪のような毛むくじゃらで生まれて、
亡くなった親父の臨終の顔そっくりなことにぞっとした経験があります。
けれども、私は東洋的な輪廻の思想を漠然といだいていましたので、エルンストのような屈折した気持ちを抱くことはなかった。
そして、マックス・エルンストは1924年に、この絵を描き上げました。
英語では有名な看護婦さんの名前と紛らわしいですがドイツ語でNachtigall 和名は サヨナキドリ
(小夜啼鳥)というそうですが、日本にはいない鳥です。上のリンクをクリックすると写真があり、スピーカーのマークをクリックしますと鳴き声を聴くことができます。
分類で言うとヒタキ科の小鳥ということで、日本で言えばキビタキやツグミが仲間のようです。かなり甲高く鋭い声で、縄張り争いをしているような感じが強いですね。
私も、フロイトやユングなどの心理学を大学で教養として選択して、無意識あるいは潜在意識の問題を多く意識し取り扱うことが多いので、そういう背景が分かりますとエルンストはわかりやすいかもしれません。
伊藤画伯と話をしていて、エルンストの絵のタイトルに話が及んだことがありますが、なるほどエルンストは自分が幻視するものを心理学的に理解して、絵に定着させ、心理学的解釈に基づくタイトルをつけていたのだな、と。
この絵の左側に描かれているNachtigallは、多分縄張り意識の強い小鳥なのかと思う。
エルンストは、この小鳥をホルネボムに擬し、さらに自己投影をしているのだろう。彼は自分の幸福な世界を侵された怒りと、ホルネボムを失った悲しみを心密かに抱いており、父母や妹に対する愛情との相克のなかで、無意識的に赤ん坊の妹を威嚇してしまいたい幻想に襲われる。
ところが、画面の母親はそんなエルンスト少年のこころの傷手を知らないで、髪振り乱して包丁を打ち振って私を追い払おうとする。
父親は赤ん坊をかかえて、シェルターである家の中に逃げ込もうとする。
家庭的秩序の中では、怒りを秘めたNachtigall は疎外されつづけるだけの存在=孤独を抱えたエルンスト少年に変容するしかない無意識の焦燥感のようなもの。
このように見てくると、彼の初期作品の技法であった「物の凹凸を紙に写し取る」フロッタージュ技法は、アンドレ・ブルトンの「純粋心理のオートマティスム」という思想の影響下にあったのだろうが、その後に採用していったコラージュは、非常に分析的な知性で絵を描いていることが解る。
絵の様式から言えば、表現者の感受性をも否定していったシュルレアリズムは表現技法的にはより先鋭的先駆的であり、革新的な意味では価値があると言えるかもしれない。
けれども、そのようなイズムではくくれない、深い意味性が見いだせる。いや、意味を持ちすぎるというべきだろうか?
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