スッタ・フリダーヤ(3) 詞書きとしての縦糸

スッタという言語群は意味の脈絡であると同時に、時間的推移を表象する。これを縦糸として、詩を時代的な横糸に擬することで、ことばの綾織りとしての詩の共通認識が得られる...。

 表現されたものは、それを公開した時から、表現者を離れて表現自体が一人歩きする、と言われる。

 けれども、どのような形式であれ、それが表現行為であるからには必ずその表現をするに至った意図やモチベーションがあるはず。

 たとえば、感覚拒否のシュルレアリスムであっても、その表現形式に至った内面的な推移や思いがあるわけだ。
 表面的には偶然の効果を狙った様々な手法でも、その手法を選択した推移がある。

 一方で、鑑賞者あるいは受け手は、表現者とは全く別な人生経験を歩んでおり、
 その中で培われてきた感受性やセンス、そして理解力で、
 その作品を極私的に理解したり味わったりする。

 そうすると、自分の理解に見合うものだけを受け容れ、
 自分に合わないものは受け容れない、あるいは最初から拒否してまうことになる。

 それだけならまだしも、とんでもない曲解や誤解をしておいて、
 その誤解の下に批判や非難がましいことを言われたりもする。

 それが表現者を待ち受ける宿命なのだと割り切ってしまえば、
 解る人だけに分かってもらえればいいということになっていくし、
 意味ではなく、(表現性の)高度な表現ほどほとんど理解されない...か、
 あるいは熱狂的誤解=妄信者によって教祖的に崇められるか、ということになっていく。

 けれども、理解されずに無視されるのも、
 妄信されて崇められるのも、
 ...表現者が本当に求めているものではないはずだ。

 なぜ表現者になったのかという原点を顧みれば、
 日常生活の中で他者との通常のコミュニケーションだけでは絶対に満たされないものを感じ、
 自分というものを過不足なく理解して欲しい
 ...という思いがそこにあるからだ。
 でなかったら、ただただ孤独でしかない<表現者>になど、ならないのではないだろうか。

 理解して欲しいというものが表現の原点にある以上、その条件をクリアする工夫も必要なのだと思う。
 

 詩であれ、絵であれ、歌であれ、
 一つの作品には過去から未来に連なる縦糸(スッタ)と、
 現在的な内面世界(横糸)が織りなす織物にも似た絵柄とが
 「画布」(キャンバス)となっていたり「パピルス」になっていたり、するのだ。

 どのような表現も、その経緯の上で成り立っている。
 けれども、鑑賞者は横糸の部分しか見えないので、
 自分の理解の枠組みで私的な解釈を試みようとする。

 表現と理解にまつわるこの齟齬を少しでも避けたいと思うなら、
 表現者は縦糸の部分を明示する、ということも時には必要だ。

 私は歌謡曲の解説記事を書きながら、
 中学1・2年生でも理解できなければいけない大衆文化という枠組みの中で、
 前振りという形式を図らずも採るようになった。

 私にとって常識としか言えないことでも、常識でないひとも多い。
 学術論文であれば、本題に入る前に語彙の定義をしておくが、それと同時に、はじめに説明的な文(サマリー)を記しておいて、それをベースに本題に入っていく。

 これは、わたしの言う<縦糸>の一端をなぞってみせる行為だと言ってもよいだろう。
 この前振りを多く使うようになってから、より理解されやすくなったように思う。
 読者のかたの反応が出てくることで、それが判る。

 和歌でいえば在原業平の歌が長い<詞書>(ことばがき)をつけて、歌の故事由来をのべている。
 それと同じかなと思う。

 このブログでは、私自身の「縦糸」の部分を明示しておく必要があると思うので、
 「詩のページ」で「スッタ・フリダーヤ」という連詩形を提示し、現在に至るまでを明示していきたい。

 これは、詩作品の本体ではなく、
 私がこれから書く詩作品を一貫して貫いている縦糸を、最初の一滴までたどる試みだと。

 このような縦糸の束に、私の書く詩が横糸として織り込まれ、絵柄を浮かしていくのだ、
 ...という前振りの注意書きみたいなものといってよい。

 (ちなみに、織物は縦糸と横糸が交互に交差する平織りを基本に、縦糸を何本か飛ばして交差させる朱子(しゅす)織り、飛ばす位置を少しずつずらす綾織りが、いわゆる三原組織と呼ばれている。)

  作品「スッタ・フリダーヤ」は、詩の体裁にはなっているけれども、詩ではない。

 これは私の表現のバックボーンになっているものを明示する、
 ...という意図であることをご了解いただければ、
 その後の理解が多少なりとも共通認識の枠組みでなされていくのではないかと思う。

 詩の故事由来を示す詞書(前口上)が連ねられたものであり、詩の本体ではない、と。

 配列が時代を遡っていくのは、
 それが私自身の経験を遡行して原点を目指すという意図があるためだ。

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この記事について

このページは、小林由典が2009年8月 7日 09:19に書いた記事です。

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