スッタ・フリダーヤ(2) 言葉のはた織りとして

詩を書くことは、日々糸を紡ぎ、布を織ることに似ている。そこに、何らかの有意味性があるとすれば、自分の人生に主体的な意味を与えること、が含まれるだろう。

 過去は校正することなどできない。けれども、そのの記憶を再構成することはできる。
 記憶というものはいつでも即自的な表象として、頭脳の海馬によってアルシーヴとして保持される。
 海馬は論理的な判断には係わらず、情動的な仕分けを行うようだ。

 記憶を再構成するとは、それらの記憶を意識=言語行為として、新たな意味づけを行うという事になる。
 人の行為には必ず内面的な動機が潜んでいる。それが、意識されているか、そうでないかの違いはあるが...。
 詩を書くことに何らかの効用があるとすれば、自分の人生に主体的な意味を与えること、が含まれるだろう。この場合の「主体的」とは、即時的受動性に対する意味であり、主観的な意味あいではなくて、対自的な意味である。つまり、自分自身を(対自的に)掬い上げる営為である、といってよい。

 詩を書くことは、日々糸を紡ぎ、布を織ることに似ている...
 晩年のガンディーが、日々糸を紡ぐ映像を見て、そう連想せずにはいられなかった。
 北インドのバラナシ、ガンディー・アシュラムで手にした綿布は手紡ぎの不揃いな糸によってざっくりとした風合いを醸しだし、時間という縦糸に人の営為が横糸として編み込まれた人生そのものなのだと。

 スッタはもともとその発祥の地であるインド・ヨーロッパ語圏では横書きで表記されていたらしい。
 それが、漢字圏に広がりを見せたときに縦書きに変換されて、「経」あるいは「経律」と訳される。

 経とは、東経83度16分、などのように縦線を意味し、織物で言う縦糸の意味もある。
 だから横書きのスッタには、縦糸という意象はないのかと思う。

 仏陀の時代であれば、燎原の火のように、マガダ国やコーサラ国に広がりを見せていましたので、確かに横糸という感じも悪くない。

 しかし、時代が降りてきて唐の三蔵法師が天竺国に仏典を求めたときにはすでに仏教はドーナッツ化現象を起こしていて、その起源の地では消滅の危機に瀕していた。

 この現象は宇宙的に見れば銀河系の発展の様式と相似形であるし、
 地球的規模で見ればあらゆる文明の発展と相似形であり、
 マクロに見ればキノコの菌糸がドーナッツ状に広がっていくのと相似形であり、
 物理的には水の波紋と相似形であるるといってよい。

 しかし、そのような経緯を可能にしているのは時間的推移があるからだ。
 そう考えれば、横書きであれ縦書きであれ、継承され発展していく言葉=スッタというものは、
 「縦糸」であらねばならないと思う。

 だから、スッタが縦糸と呼ばれ得るためには、時間的推移の中で多くの結集が加わり、
 あるいは多くの枝が分かれる、という生成発展の経緯が必要なのだ。
 それは、あたかも巨大なバンヤン(banyan)のごとき姿なのかもしれない。

 そして、そのスッタにははじめの一滴があるはずだし、それはブッダガヤの菩提樹の下で熟成されたものとされる。
 この菩提樹は西洋の菩提樹ではなく、ベンガル菩提樹つまりバニヤン(banyan)樹である。

 シッダルタに瞑想する場所と木陰を与えたバニヤンこそは、スッタの原初的起源であり、
 「起源の起源」であると呼ばれるゆえんであろうか。

 バニヤンは空気中の水蒸気を取り込むための気根を下ろし、それが地面に達するとそのまま根を広げて一本の幹のように成長していく。
 かくて一本のバニヤン樹は枝から幹が発生して森林のように大きくなっていく。

 スッタの生成発展を象徴するに、まさにふさわしい樹だと思う。

     「スッタ・フリダーヤ(3) 」につづく

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このページは、小林由典が2009年8月 2日 01:33に書いた記事です。

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