スッタ・フリダーヤ(1) 連綿たる縦糸の中心

伊藤画伯の現代絵画と詩のジュガルバンディーの試みを始めました。最初の一枚の絵が送られてきて、わたしはこれを表紙に見立て、前書きとしての詞書きをつけてみた。永遠に未完のまま...

 前回の打ち合わせで、ドアというイメージから始めましょうということになり、送られてきたものだ。

作品0029 即座に浮かんだインプレッションを記しておきます。

 この絵のタイトルは、というより私が書こうとしている詩のタイトルかもしれませんが、
 「過去・現在・未来」あるいは「スッタ・フリダーヤ・ニパータ」としましょう。

 中央の暗赤色で描かれたものが心臓の形に見えることから、「フリダーヤ」(心臓、中心)であり、左側が未来へ、右側が過去へ、と連なっているイメージだ。
 つまり、現在という空間と過去から未来へという時間とが交差するその中心ということになる。

 スッタとは南伝仏教のパーリー語で、織物で言う縦糸です。漢語では「経」と訳されます。
 ニパータとは、寄り来たりしモノとか、集まりの意味で、あわせて経典となります。

 ここでは時間性と空間性とを意味しており、真ん中に心臓がある。

 

 言葉が連なって縦糸を織りなし、行く方来し方の中心である現在、それは血液を全身に送り出し呼び戻す心臓として表象される。スッタは集まり、再び散じていく。

 色の重なり具合を見ると、右側のダーク・パープルが過去を意味しているように思う。
 パープル・シャドウ、なにやら昔のグループサウンズのバンド名と同じようですが、わたし的には「蒼(あお)ざめた過去」とでも。

 シャドーというのは心理学で言えば自分の人格に潜む暗く醜い側面、仏教で言えば貪・瞋・癡(とん・じん・ち)という、文字通り影の部分ですね。
 自分の人格といいましたが、これは人間性一般の普遍的な心性だといってよい。

 何か右後方を向いている人の姿に見えてきます。思考は連想の連続ですから、連想に任せます。
 過去を見つめている人、とでも。

 高見順の『死の淵より』中の詩に「過去の校正ばかりしている手」という印象的な一節がありました。
 晩年の物書きの心情かもしれません。

 過去の校正ばかりでは、何も生まれないかもしれませんが、人間一度は過去を構成し直す必要があるはずです。詩を書くことは、自分の記憶の再構成という要素があるのではないだろうか。

 真ん中が心(しん)、文字通り中心です。
 これが、スケルトンの心臓図という感じがします。
 血液が流れ生きている。

 今現在、生きているという表象性を感じる。

 そして左側は意味的には未来になるはずですが、何故か閉ざされているようです。開かれていない...

 印象的には、天の精、地の精によって支えられている壁のようなものによって遮られている、という感じです。一抹の閉塞感が漂っている感じだね。

 壁と見えるものは、あるいはドア、あるいは扉なのかもしれない。(「お題」を意識しているのだろうか)
 その左側には光と影のような縞模様が見えます。

 彼または私は異次元へのドアを開けるだろう。

 その先が、光の世界であってくれたらいい...
 しかし、影の世界、あるいは深い霧の世界に踏み込んでしまうかもしれない...

 画家伊藤雄人は、シャドーとの対決、言葉をかえれば自己超克という問題に対面しているのではないか、と推察します。

 人間性の持つ好ましからぬ影の部分、これを見据え、解体し、超克していくことは人格的に成熟していくための最大の課題ですけれど、とりわけ画家や音楽家作家などに顕著にその傾向が見て取れる、といわれます。

 何故かといえば、表現者というのは過剰過ぎる倫理意識を抱えているからですね。
 自分が美(or 反美)であると思うものを表現するわけですが、否応なしに自分がそこに見えてくる。

 若いうちはそういうシャドーの部分こそ人間の本質だと思い込んで、ことさらそういうのをえぐり出してみせるようなことをやりますが、それは心理的にはペルソナとの相克の問題です。

 けれども、精神的に成熟していくと次第にシャドーとの対決・超克を課題とするようになっていくのだ。

 芸術家あるいは表現者の創作意欲の源にあるのはこのような内面的な相克なのだ、といってよい。

 シャドーと対峙するようになると、それこそが人間性の本性だと思ってやってきた過去の行動・行為・表現は、若さ故の愚行というには恥ずかしすぎるものに思えてならない。

 実生活においても、「立派なことを書いたりしているけれど、実際には女たらしのスケベで、金に汚い、俗物根性の持ち主だ」などといわれて、自分の表現したものを汚したくないと思うようになる。

 ですから、過剰な倫理観を背負い込むようになるもので、この倫理意識とシャドーとの相克が成熟期のモチベーションとして、通奏低音のように基本モードとして作品を彩るのではないかと思う。

 この絵に対する、私の縦糸表現「スッタ・フリダーヤ」は、「詩のページ」に掲載します。

        「スッタ・フリダーヤ(2) 」につづく

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この記事について

このページは、小林由典が2009年7月 2日 12:11に書いた記事です。

次の記事は「スッタ・フリダーヤ(2) 言葉のはた織りとして」です。

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