03 絵画インプレッションの最近の記事

 友人の伊藤雄人画伯が、参加している「自由美術展」において「靉光賞」を受賞した。昨年秋の慶事である。

何らかの表現ではなく、それ自体である表現...という点において、両者は通底しているのだろう。そこでは解釈は重要ではなく、作品により沿って経験することが必須のこととなるはずだ。

机の引き出しを整理していたところ、上野在森 展(2010.5.31-6.5)の葉書が出てきました。会場の「ギャラリー檜B・C」は、行ったことがあるのですが......

鑑賞者の自由な感応に委せる度合いの大きい非具象絵画は、具象絵画とは対照的に、個性的ではあるけれど謙虚な表現なのではないかと思う。Arimori Ueno の世界を覗く......。

現代絵画が示しているものは、画家の一筆ごとの創造過程の最終停止状態であり、具象絵画におけるような完成ではないという気がする。だが上野在森画伯の絵は見られることで完成する...

伊藤画伯に誘われ、銀座のあかね画廊で開かれた宮西寛人展を訪れた(9/16)。自由美術展で「いいな!と印象に残っていた作風でしたが、今回はじめて作者を知ることになりました。

今朝のテレビニュースで、ジャコメッティの彫刻がオークションで94億円で落札され、史上最高額だったことが報じられていました。作品は「歩く人」のようでした。

ジャコメッティのDVD 『本質を見つめる芸術家』を買いPCで見て、本当に感動しました。学生時代にジャコメッティをもっとよく知っていたら、と本当に残念だなと思う。

見えるように描き制作するというジャコメッティの特異な作品。他方、リアリズムの描写は無数の視点移動によって成立しているのであり、そのの方が非現実的な視覚だといえる。

藤林叡三の画風の変遷をみると、表面を描くはずの絵画において、作者の視線が表層から深度を増していくように思える。人間の内面、言葉の届かない詩的世界という趣だ。

藤林叡三の画風は内面に向かったと書いて、ジャコメッティの言葉を思い出した。「内側のことであれこれ考えることはなく、外側だけで問題は山積みだった」と。再びジャコメッティについて...

上野の森美術館「聖地チベット」-ポタラ宮と天空の至宝-展。「チベット的やり過ぎ」を感じましたが、そのやり過ぎの美の極致が表題にある観音像なのだろう。

ジャコメッティの視覚の特徴として、垂直的な構成だけでなく、ある種の縮み志向がある。これは意図するものではなく、対象が圧倒的に迫ってくるという、感覚によるものらしい。

表現はどのように始まり、どのように終わるのか。自然を離れた現代詩と現代絵画と、手段は異なっても、「始まりもなく、終わりもない」という感覚は似ているなと思える。

ジャコメッティはどのように対象を見ているのか?彼の塑像に衝撃を受けて詩の素材にも取り上げている手前、多少なりともわたしの理解を述べておくべきかと思う。

時々、絵画鑑賞についての検索があります。このサイトが誤解を与えないように、説明をしておくべきかと思います。具象画と非具象画では正反対の要素があるだろう。

自然的感性で<みえる>ことと、認識として<みる>こととは決定的に異なる。<みる>ことを意志する者は、<みえる>ことしか語らぬ人群れから追放される宿命にある。

立石大河亜(タイガー立石、本名:立石紘一1941~1998)は五木寛之『青春の門』の舞台である筑豊炭田のあった福岡県田川市出身の画家・彫刻家・漫画家・童話作家。

伊藤画伯と私とのジュガルバンディー(絵と言葉の響き合い)の作品です。画伯の絵から、他の二人の画家の絵画を連想しました。少しばかり、解説をしておきましょう。

詩でも絵画でも、強いモチベーションを感じるものと、それが感じないものとがある。モチベーションが薄れ、ほとんど惰性でかいているのではないかと思えるものが少なくない。

マックス・エルンストの『ナイチンゲールに脅かされる二人の子供』は、ある種の内面的障害を持つ人の<絵画療法>というような趣をもつ。絵画による自己開示、あるいは救済。

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