一年近い沈黙の日々、文字通り形而上学的な問題追及と、没大衆的な生活。言葉にできないでいる経験を形にしていかねばならないと感じ始めている。「シルバーな日々」とは、......

何らかの表現ではなく、それ自体である表現...という点において、両者は通底しているのだろう。そこでは解釈は重要ではなく、作品により沿って経験することが必須のこととなるはずだ。

詩の言葉に、巨大な声が加担しなくなった。このことは即物的な事実としてさりげなく語られる必要がある>という言い方は、近代(モダン)の終焉と戦後詩の終焉とを包括的に示唆しているのだろう。

意味の通じないモロッコの言語はマルチリンガルのカネッティに雑音として聞こえていたのであろうか。あたかも鳥や虫の声が雑音として聞こえる西洋人と同様に?彼らは言葉を右脳で聴くらしいが、左脳で聴く私は...

現代詩という定義ともその歴史ともあまり関係がない、と吉本隆明が規定した「若い現代詩」群...。けれども、ポストモダンを担った現代詩群は個々人の詩の世界で詩の本質に迫る苦戦を強いられていた。

 過去記事を、ほぼ8割程度回復させました。詩の時評的なものは公開期間終了ということで、別にアーカイブを作るかもしれません。その他、改訂するには時間がかかりすぎるものは、検討中です。

2010年4月に第一稿を発表した詩を、2012年6月に改訂し、今回は最終稿に近い形で発表します。去年一年は失われた空白期間でしたので、3年越しの推敲と言えるでしょう。思いがけず言葉が流出しました。

外国の詩人の翻訳詩にはどうもなじめないところがある。精神、文化の違いだけでなく、翻訳不可能な要素の捨象など、原文を読むにしかずだけれど、我慢して...

机の引き出しを整理していたところ、上野在森 展(2010.5.31-6.5)の葉書が出てきました。会場の「ギャラリー檜B・C」は、行ったことがあるのですが......

現象学的還元とは認識過程における<対象>と<現象>の関係を、自然主義的に「原因」と「結果」とせず、<現象>から<対象>の存在を認受する条件を検討する手続きだ。

言表の意味は「状況コンテクスト」と「言表コンテクスト」によって導かれ示される。パロールとエクリチュールの本質的差異はない。記号としてみると、解釈の無限性という誤謬が生まれよう。

言語の「意味」とその「了解」を過不足なく理解するためには、辞書的意味しか取り扱えない記号学ではなく、<発語者の意味付加>と<受語者の了解確信成立>の構造を把握する必要がある。

デリダの記号論的言語論は「意味付与」=「意識」と「表現」との関係に言語の本質をみる伝統的言語観を逆転させ、記号がいかにして一定の意味を読み手に喚起するのか、を問題とする。

前回に引き続き、フッサール言語哲学とジャック・デリダの脱構築論議を、例文をめぐって検討していきたい。意味付与を重視するフッサールと、作者の不在・死を本質とするデリダの記号論...

言語の意味性は言表者の意識に由来するものなのか、記号としての言語自体がはらまざるを得な差異の体系にあるのか。パロールとエクリチュールとの違いは本質的なものなのか、検討する。

デリダによるフッサール現象学およびソシュール言語学批判は、デリダ的解釈による論点の位相変位とでもいうべき誤読をもとに展開されているが、彼の言語観と同根にあるといえよう。

ポストモダニズムによる哲学・言語学の革命は、問題の本質を離れて、現実のレアリテではなく論理上のレアリテを説いているのではないだろうか。現象学の提起した精神は曲解されてきた。

 吉本隆明「言葉からの触手」は16章からなる正味115ページの文庫本だけれど、1980年代後半の日本における精神・社会状況を言葉という切り口で、吉本思想のエッセンスを展開している。

二〇世紀の言語革命は、五世紀ころのバルトリハリ言語哲学と出会って、それを換骨奪胎する形で遂行されたようだ。古典ギリシャ語研究からサンスクリット語との比較言語学へと...

バルトリハリ『古典インドの言語哲学』(文と単語についての書)に衝撃を受けた。古代インド、五世紀グプタ朝の文法学者・言語哲学者が二〇世紀の西洋言語学に革命をもたらしたという。

続いてブランショはサルトルの「想像的なもの」を足がかりにして、レヴィナスの「想像的破壊」という考え方に至る。ヘーゲルからサルトル、レヴィナスに至る経緯を簡単に追ってみたい。

この詩集で谷川俊太郎が向き合っているのは、モーリス・ブランショが提起した言語論の問題であろう。言葉は存在自体の属性を剥奪する。その失われるものを回復するのが文学だ、という...

言葉による表現が言語の構造や働きに立脚している以上、言語観の大きな変化は表現にも相応の変化をもたらす。詩作者はこの変化をどう受けとめ、詩を成立させようとしているのか?

替え歌とは内容を換骨奪胎したものなので、本歌には形式的あるいはリズム的な特徴や魅力があるということだ。それをなぞりつつ自らの世界を投入する臨詩は理解にも詩作にも役立つ。

荒川洋治の詩はひねりが効いていて、一筋縄でとらえることは容易でない。であれば、「おひねり返し」の技を磨かねばならないだろう。主要キーワードを列挙し、裏の意味をあぶり出す。

「大井町」を意味的な喩から像的な喩への移行の妙だと評しましたけれど、荒川洋治の詩は基本的に<日常性の仮構>の上に、<非日常的言語空間>を創出する試みだといってよいだろう。

一篇の詩を読んだだけでは、群盲象をなでる解釈になりかねない。特に、言葉の指示表出性を破棄しているかのような詩では、詩集全体で何かの大きな喩となっているということが考えられる。

荒川洋治詩集『遣唐』は、80年前後のアイドル歌謡曲の歌詞を思い出させる。内包するエロチックなイメージを、デノテーションの文脈によって覆っている。デノテ・コノテ・あの手という隠語...

私の知っていた70年頃の詩と、現在的な詩は決定的に違うものになっている、という浦島太郎のような戸惑いから、その変化を確認するために失われた年月を過去から遡行してきた。

抒情の問題が「作者の叙情」から「言葉の上の叙情」に変革されたように、統覚の問題も「作者の統覚」から、「テキスト上の統覚」へと視点が転位した。そして文脈はメタ文脈へ......。

吉岡実から始めることに意義のあるこの書で鮎川信夫を取り上げる意図は、「断片を統覚する全体」という考えの限界が70年代に出てきたという野村喜和夫の言に私が躓いたからだ。

言語学的転回について、問題の存在とその転換という社会現象だけを前回記述しましたが、いまひとつ了解が不十分かもしれないので歴史的な経緯をここで概観しておきたい。

「討議戦後詩」(野村喜和夫+城戸朱理)は狭義の「戦後詩」という枠組みで「荒地」派などから検証を進めずに、「近代」という視点から「戦後詩」の再定位を試みる。近代とは何か?

いったい詩とは何だ、擁護すべきものなのか、そもそも詩は存在するのか。詩に関して様々な言説が際限なく野放図な形で可能である。曖昧模糊として、甚だいかがはしい「詩」なるもの...

優れた詩人と、その他の詩人たちとを資質的に分かつものは何だろうか?入沢康夫にみる常識にとらわれない柔軟かつ徹底的な追求、そして果敢な試みの実践は、常人には及びがたい。

物語的詩の試みについて、物語は作者の真の目的ではない、と。物語は一つの「手段」としてある種の触媒のような役割を果たす。何のための触媒か。「詩」の顕現のためだが...騙る主体とは?

優れた感性を持つ詩人であれば<ことば>が先験的に与えられた自明のものだとは受け取れないものだ。自然感性で書かれた言葉を疑うところから今日的な詩が始まり、終わりは......ない。

吉増剛造の朗読は詩人が自作を読むという通常の形ではなく、語り部の吉増剛造が読むという仮構性を帯びている。この仮構性が吉増詩の想像世界を支え、秘教性からも免れる事となっている。

前回、鈴木志郎康の辛辣な批評を読みながら、吉増が語った「圧倒的に無理な姿勢」という言葉を思い出していた。吉増の言語表現は、リリエンタールの羽ばたき飛行機のごとく離陸し続ける。

吉増剛像は近代的自我における「主・客の対立」という存在の謎に対し、モダニズムに就くのではなく、アメリカ留学時代に知ったであろうシャーマニズムという古代的自我に自己企投していく。

自我について正面から扱おうとすれば主観と客観という二項対立二・律背反の論議に陥る。私の関心事は言語表現と作者・話者との関係であり、霊魂観をパラメータに自我の有り様をみていく。

記紀歌謡から新体詩そして口語自由詩へ、言葉は変化していったが、それは事の端に過ぎない。言語論的には(表現)主体意識の転換がなされたと言うべきだ。西行、藤村、吉増と検討する。

シュペルヴィエル (1884年 - 1960年) は南米の人という印象でしたが、両親の母国フランスで詩人としての地位を固め、二つの国を行き来する生涯を送った、日本にもファンの多い詩人です。

詩人が言葉を書くトポスは内面世界と外面世界との接触する臨界であり、今流行りの言葉でいえば現代詩的言語の「絶対領域」なのだ。吉本隆明が「魂を千里移行する」と表現した乖離の構造的風景...。

「純粋処女プアプア」ではなく、「売春処女プアプア」であった。思い描いていたイメージも全然違っていたのには、自分自身で驚いている。なぜこんな読み違いをしていたのだろうか?

言語感覚といっても範囲が広いので、過不足なく定義することはなかなか容易ではない。ここは極私的に話を進めよう。たとえば、私がひとの詩を読んで違和感を感じ指摘する場合、それは...

「何故こうも表現しようと意図して、いわゆる作品というものに至れない人々がたくさんいるのか?」...... という答えは、このブログの各所で提示しているかと思う。何が問題だと、鈴木志郎康は?

「知識のつみかさねからではなく、ただ書きたいように書きはじめた初心者の書いたものへの、鈴木(志郎康)さんの視線のやさしさは、ぼくには、とても真似できるものではない」という、

現代思想は相対主義を追求する。その相対主義のあり方がリゾーム的なものであり、ツリー型の体系をもつ従来の哲学と決定的にたもとを分かつ。現代詩もまた、単一の声ではないことを模索する。

現在的な現代詩の世界に入るに際して、現代思想について俯瞰する時間をとりました。インテリジェンスの高い一流の詩を読むには、現在のエピステーメーへのシフトを知っておく必要がある。

遅ればせながら読んでみた。入沢康夫といい、荒川洋治といい、先入観をもって遠ざけてはいけないな、と痛感する。同級生である荒川と出会うのに、ずいぶん回り道をしたように思う。

私は荒川洋治の詩を、ほとんど読んでいない。文学青年ではなく行動者として1969年頃を生きていたから。荒川洋治は若い時分から詩を書いており、詩の世界で有名人になることを志していた。

入沢康夫「わが出雲・わが鎮魂」は1968年発表。「オシリス、石の神」はそれから16年後。入沢の「さみなしにあはれ」は、吉増剛造においてはどのような受け止め方がなされているのだろうか。

今日的な詩の世界に入ってゆくにあたり、戦後詩の大切なメッセージを再確認しておきたい。
 それが、今回のタイトルの意味である。

ゲニウス・ロキ とは、ローマ人の神話世界における土地の守護精霊のこと。入沢康夫「わが出雲・わが鎮魂」について、吉田文憲が「さみなしにあはれ」の構造として論じている

社会が個人を疎外してゆく度合いを増すにしたがって、抗うように同人誌的小集団現象が、1980年代中頃から全国各地で発生している。これは、どのような意味あいを持っているのだろうか?

身辺雑事のことにしか興味のない人間が激増している。現在の社会状況の反映だ。同様に、今日では自分のことにしか興味がないという四畳半詩を書いている人も少なくない。

現在の大きな社会問題として、弱者犠牲の上に成り立っている社会のあり方が問われているという。なぜ今、それが?といえば、民主主義が大衆に浸透してきた結果なのだと。

鑑賞者の自由な感応に委せる度合いの大きい非具象絵画は、具象絵画とは対照的に、個性的ではあるけれど謙虚な表現なのではないかと思う。Arimori Ueno の世界を覗く......。

現代絵画が示しているものは、画家の一筆ごとの創造過程の最終停止状態であり、具象絵画におけるような完成ではないという気がする。だが上野在森画伯の絵は見られることで完成する...

エクソダスとは日本語から脱出することではなく、既知の日本語が自分を通過すると未知の言語に変わる、という言語表現を追求することだと。デノテーション以外で用いるとは...。

日本語は複数の言語が融合して成立したものであり、更に漢語やサンスクリット語が政治・仏教界で用いられ、アイヌ語や琉球語などの方言が並行して使われていた。日本語の起源を想う。

タイトルは『古典力学』の「広場を横切る三人の影」から。「蒼ざめた馬」はロープシンの著作、「デラシネの旗」は五木寛之の小説からきている。1969年当時、怒れる若者のキーワードであろう。

帝政ロシア末期の詩人ロープシン。運命に翻弄され旧約聖書「ヨハネの黙示録」に啓示をうけたテロリスト、サヴィンコフその人であり、己の魂を回復するために書き残した懺悔の言葉...。

エセーニン詩集から、ロシアの詩人というヤツは!という部分をことさら選んで紹介する。大酒飲みで、たびたび社会規範を踏み外す狼藉をはたらくけれど、どこか純朴で奥深いところがある。

社会的無関心あるいは問題意識の希薄さの構造を考えてみたい。 これは、ただ単に勉強不足だとか知性の問題だとかたづけられない、我が国のシステムに根ざしている深いものがあるようだ。

地方文化詩とでもいう詩群に一様にみられる社会的視点の曖昧さ、あるいは思想性の希薄さ、あるいは内面的世界の薄弱さという特長は、歴史的遺制と現代的状況と、両方の要素がある。

戦後詩を「荒地」派だけ取り上げて終わるのは不親切かなと思う。やはり土俵は三役そろい踏みでないとバランスがとれない...。ということで、「抒情の論理」から他のグループも紹介しておきたい。

日本の現代詩は第二次大戦をくぐり抜けることによって、詩的想像の世界が、社会的土壌から隔絶するほど強固である詩を持たなかったことが露呈した。この認識は、今日でも表現者を脅かす。

社会が高度に発展するほど、大衆意識の中に潜んでいる自然的感性は疎外されてゆく。
「癒し」を求めたがる人々の気持ちの根底には、現実逃避と表裏一体の自然回帰願望が潜むのだろう。

 

伝統的で日本的な感性からみると、「四季」派の詩は最も「詩」らしい芸術性の高い詩であり、今日でも女性を中心に大衆的な人気をもっているのだろう。ある意味では、伝統的正当派なのだけれど、...

前回の年表はきわめて不完全なものだが、堀口大学や上田敏らによって少しずつ紹介されてきた西洋詩は、昭和初期のモダニズムによって一気に多様な展開をみせた事が分かる。

戦後詩というのは文字通り戦後に起こった詩精神であり、1970年代から80年代にかけて、終焉を告げられた詩群である。戦後詩とはいったい、何を指しているのだろうか?

歴史主義に対する非連続的構造(空間的認識)について、省略してきましたが、これについて吉本隆明が分かりやすい説明をしているなと思うので、取り上げておきます。

自己完結的な詩の根底にあるのは反省以前的なコギトにある以上、これ以降の現代思想のプロセスを知ることが必要になってくるだろう。転換点となった構造主義思想を追っていく。

デカルトよりもはるか昔の紀元前4~5世紀、仏陀は今日の仏教思想の基となる悟りを開いた。仏教もコギト哲学の系譜だといってよいのだけれど、なぜ独我論の罠に陥らなかったのか?

生活に立脚して書かれている女性たちの詩には内省的で自己完結的に閉ざされがちな傾向がみられる。何故かといえば、批評的な視点が欠落しているか、薄弱であるからではないだろうか。

默説法というレトリックは、何やら意味ありげな語彙を使い、さもその裏に深い意味でもあるかのごとく思わせる技法だといえば、アイロニカルに過ぎるだろうか?大鉈を振るう観は否めないが...。

伊藤画伯に誘われ、銀座のあかね画廊で開かれた宮西寛人展を訪れた(9/16)。自由美術展で「いいな!と印象に残っていた作風でしたが、今回はじめて作者を知ることになりました。

ポランニーは暗黙知について、様々な実験・研究事例を列挙して、詳細に検討を加へています。 それらを読むと、じつに人間は多彩な認知感覚を持っているな、という驚嘆を覚えるだろう。

ポラニーの出発点は、「我々は語ることができるより多くのことを知ることができる」という事実である。
 多分に西洋的なこの命題に私は多少なりとも違和感を感じますが、まずその辺から取り上げていきたい

我が国では、科学的といえばきわめて客観的な方法であるということと同義語のように扱われている。けれども、認識論的にみればデカルト的コギト、反省以前的なコギトですね。

自然主義文学という名の日本的私小説の流行について、安藤次男を引用したい。 自然主義は本来自然科学的な精神と方法とによって人生を客観的に見ていこうというものであった、が...、

日常的な言葉使いが言葉の意味性や伝達性をめざして使用されるのに対して、詩のことばは非指示性や非伝達的な側面(感覚的な側面=シニフィアン)に向かって追求されるものだ。

サティシュ・クマールの『君あり、故に我あり』-依存の宣言-と、マイケル・ポラニー『暗黙知の次元』-言語から非言語へ-と、 二冊の本を読みはじめ、そうだよ!という共鳴を禁じ得ない。

前回は変な切り分けをしてしまいました。過去に読んだものの出典を探すのは、本探しになるため手間がかかります。今回は(6) (8) [ 谷川俊太郎 ]と、(7) [ 鈴木志郎康をとりあげたい。

前回の「現代詩人のことば」はググっても載っていない書籍からの出題でしたので、一応出典を解説しておくべきかと思います。」

自らの日常生活と詩との関係をどう見るのかによって、詩は二つの分かれ道にさしかかる。大衆意識の内側にとどまるのか、大衆意識の外側で言語表現の可能性を追求するか...。

ふと手にした吉本隆明『読書の方法』から、芋づる式に『戦後詩史論』、とりわけ第三章の「修辞的な現在」について、思想論と詩とを媒介する言語の問題について、偏りのない筋道を辿ってみたい。

「新体詩運動の発生以後、近代詩から現代詩さらに戦後詩へと詩の質的転換をうながして来たものは、詩的精神の自由と深化を求め、無限の可能性に挑みつづけてきた詩的情熱にほかならない。」

「大きな野原が大好きだ」と書いた田村隆一...これを自分の感情を素直に吐露した詩と解釈できるだろうか? 「そのような直線的なリズムはぼくのこころにはなかった」と書いた詩人の詩を...

ひとくちに感動といっても、五感から受け取る感覚に依拠するものから、知る歓びみたいな形而上学的な感動もある。おもしろみとかポエジーの有り様も、様々な階調があるだろう。

詩をいくら読み返しても、作者の強い思いの由来が理解しがたい作品だ。表現不足がある、といえるだろう。だとすれば、インタテクスチュアリテを突き止める方がよい、という場合もある。

 最後は、言葉そのものの性格と、発語者の意識の問題の関連へと掘り下げています。
 「意識の下で/未だ音声にならない発語のすさみに/ハッとする」自己を対象化することだ。

世の中、「ざこ」と呼ぶほかない人間は、どうしてもいますからね、と合評会で評されました。大人の世界の話ではない。ざこということばの意味も知らない子供たちをざこキャラと分類する小学校...

ことばは存在を措定する。措定することにより、物象化への過程をたどる。とくに他者に対して浅薄なレッテルを貼ることは、単に偏見の目で見るだけでなく、ひとを苦しめることにもなる。

この詩の背景となっている<オボツカグラ>と、<ニライカナイ>......それは垂直の権力構造と水平の楽土。それを見る視線こそ、詩の意味性を左右するのではないか。

この詩は、神権から王権へという形の『おもろさうし』を、庶民主体に脱構築していると見ることができる。ただし、表現としては両者の対照をクェーナ形式で表しているだけであるが。

「ユネンティダ」の本歌となっている、首里王府の編纂した神歌集『おもろさうし』。これについて、解説をしたい。南方言語とその文化について、状況コンテクストをみてゆく。

『日本現代詩選』第34号 (日本詩人クラブ)所収、「ユネンティダ」(飽浦(あくら)敏)。この詩人が背負っている豊かなカオスに、たいへん興味をひかれるものがある。

今朝のテレビニュースで、ジャコメッティの彫刻がオークションで94億円で落札され、史上最高額だったことが報じられていました。作品は「歩く人」のようでした。

ジャコメッティのDVD 『本質を見つめる芸術家』を買いPCで見て、本当に感動しました。学生時代にジャコメッティをもっとよく知っていたら、と本当に残念だなと思う。

見えるように描き制作するというジャコメッティの特異な作品。他方、リアリズムの描写は無数の視点移動によって成立しているのであり、そのの方が非現実的な視覚だといえる。

藤林叡三の画風の変遷をみると、表面を描くはずの絵画において、作者の視線が表層から深度を増していくように思える。人間の内面、言葉の届かない詩的世界という趣だ。

藤林叡三の画風は内面に向かったと書いて、ジャコメッティの言葉を思い出した。「内側のことであれこれ考えることはなく、外側だけで問題は山積みだった」と。再びジャコメッティについて...

上野の森美術館「聖地チベット」-ポタラ宮と天空の至宝-展。「チベット的やり過ぎ」を感じましたが、そのやり過ぎの美の極致が表題にある観音像なのだろう。

ジャコメッティの視覚の特徴として、垂直的な構成だけでなく、ある種の縮み志向がある。これは意図するものではなく、対象が圧倒的に迫ってくるという、感覚によるものらしい。

表現はどのように始まり、どのように終わるのか。自然を離れた現代詩と現代絵画と、手段は異なっても、「始まりもなく、終わりもない」という感覚は似ているなと思える。

ジャコメッティはどのように対象を見ているのか?彼の塑像に衝撃を受けて詩の素材にも取り上げている手前、多少なりともわたしの理解を述べておくべきかと思う。

時々、絵画鑑賞についての検索があります。このサイトが誤解を与えないように、説明をしておくべきかと思います。具象画と非具象画では正反対の要素があるだろう。

自然的感性で<みえる>ことと、認識として<みる>こととは決定的に異なる。<みる>ことを意志する者は、<みえる>ことしか語らぬ人群れから追放される宿命にある。

立石大河亜(タイガー立石、本名:立石紘一1941~1998)は五木寛之『青春の門』の舞台である筑豊炭田のあった福岡県田川市出身の画家・彫刻家・漫画家・童話作家。

詩は言葉を使う以上どのように意味性を破壊したとしてもデノテーションをはらむ事からは離れられない。絵画の場合は感受性の制限はあるけれどより普遍性を持ちうるのだろう。

伊藤画伯と私とのジュガルバンディー(絵と言葉の響き合い)の作品です。画伯の絵から、他の二人の画家の絵画を連想しました。少しばかり、解説をしておきましょう。

ネパールのポカラから間近に見えるマチャプチャレは<魚の尾っぽ>という意味だ。スイスのマッターホルン(4478m)に似た独立峰で標高6993m。ひときわ雄大な山です。

「表現自体が一人歩きする」という話に私は異議をとなえましたが、谷川俊太郎がこの問題を論じています。 「日本語共同体」という読者像。谷川の論に耳傾けてみよう。

油絵という西洋的伝統世界で作品を生み出す場合と、日本語という言語に限定されている詩で作品を生み出す場合と、普遍という概念の受け止め方はやはり異なるだろう。

「スッタ・フリダーヤ」に出てくるBanyan  樹をご存じない方はイメージが湧きにくいかと思いますので、参考イメージをアップしておきます。

詩でも絵画でも、強いモチベーションを感じるものと、それが感じないものとがある。モチベーションが薄れ、ほとんど惰性でかいているのではないかと思えるものが少なくない。

マックス・エルンストの『ナイチンゲールに脅かされる二人の子供』は、ある種の内面的障害を持つ人の<絵画療法>というような趣をもつ。絵画による自己開示、あるいは救済。

スッタという言語群は意味の脈絡であると同時に、時間的推移を表象する。これを縦糸として、詩を時代的な横糸に擬することで、ことばの綾織りとしての詩の共通認識が得られる...。

詩を書くことは、日々糸を紡ぎ、布を織ることに似ている。そこに、何らかの有意味性があるとすれば、自分の人生に主体的な意味を与えること、が含まれるだろう。

伊藤画伯の現代絵画と詩のジュガルバンディーの試みを始めました。最初の一枚の絵が送られてきて、わたしはこれを表紙に見立て、前書きとしての詞書きをつけてみた。永遠に未完のまま...

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